ヒンドゥー教の主神のひとりシヴァと、日本の荒ぶる神スサノヲには、意外にも似ている点が多く見られる。(1)



『マハーバーラタ』
聖性と戦闘と豊穣
沖田瑞穂   みずき書林  2020/4/24



<三機能体系>
・三機能体系とは、界層化された三つの機能の働きによって世界が成立し維持されているとする、インド=ヨーロッパ語族に特有の観念である。(中略)第一機能は聖なるものや法律、王権に関する領域を、第二機能は主に戦争における力に関わる領域を、第三機能は豊穣や美、平和、多数性など生産性と関係する領域を、それぞれ司っているとされた。この三区分は、インド=ヨーロッパ語族の観念上の理想社会においては、聖職者・戦士・生産者という三つの階級によって表され、彼らの神界においては、それぞれの機能を司る主神たちのグループによって表されていた。

<大地の重荷>
・四つの宇宙期(ユガ)の最初、クリタ・ユガの時代に、大地はくまなく多くの生類によって満たされていた。その頃、神々との戦いに敗れたアスラ(悪魔)たちが、天界より落とされ、人間をはじめとして、さまざまな動物に生まれ変わった。彼らは生き物たちを苦しめ、殺戮し、偉大な聖仙たちをあちこちで傷つけた。
 大地の女神は重圧に悩み、恐怖に苦しめられ、ブラフマー神に救いを求めた。ブラフマーは、全ての神々、半神族ガンダルヴァ、天女アプサラスたちにこう命じた。「大地の重荷を取り除くために、それぞれの分身を地上に降しなさい」
 インドラをはじめとする全ての神々は、自分たちの分身を子として地上に降した。ヴィシュヌもまた化身を降した。
 このようなわけで、やがて地上において「クルクシェートラの戦争」が行われ、多くの戦士が命を落とすことになる。

<ヴァルナからヴィシュヌへ>
・インド最古の宗教文献として、紀元前1200年頃に成立した『リグ・ヴェーダ』において、主権を司る神々の一群、アーディティヤの筆頭の地位を占めるヴァルナは、天空の至高神として君臨し、その峻厳さゆえに人々に畏怖された。
 彼は宇宙の支配者であり、天則(リタ)と掟(ヴラタ)を厳しく護り、それによって世界の秩序を保つ、めつけを放って人間を監視し、欺瞞を暴き、縄索をもって縛める。彼の操る不可思議力マーヤーは人々の驚嘆と恐怖の的であった。

・ヴァルナは他の地域の天空神と同様に、その偉大さの故に次第に人々の日常的信仰から遠ざかり、ヒンドゥー神話では単なる水の神として現れ、至高神としての姿はほとんど忘れ去られた。
 インドの宗教は、アーリア人の侵入以来のバラモン教から、インド先住民の信仰を取り入れたヒンドゥー教に、ゆるやかに変化した。中村元によれば、インド神話の特徴はその「継続的発展」にある。叙事詩のヒンドゥー神話はバラモン教のヴェーダ神話の継続的発展とみなすことができるという。それならば、ヴェーダにおける天空の至高神としてのヴァルナの機能は、ヒンドゥー神話にも受け継がれている可能性があるのではないだろうか。

<天の水・宇宙の水>
・ヴェーダ神話において、世界は天・空・地の三層に分かれていると考えられていた。天界にはアーディティヤ神群をはじめとする主権を司る神々が住み、大気現象を司る戦士機能の神々は大気圏(空)で活動し、豊穣の神々は地上を主な活動領域としていた。ヴェーダ神話の至高の天空神であるヴァルナは、ミトラとともに天空の高みに座し、太陽を目として万有を支配し、降雨を司った。
 ヴァルナはまた、ヴィシュヌ仙とともに天の大海を舟で渡ったとされているが、このようなヴァルナと水界の関連は、彼が天空の至高神としての地位を失った後にも残った。ヒンドゥー神話において、ヴァルナは水神として海に住むと考えられていた。『マハーバーラタ』に記されている。以下のような海の神話的描写の中で、海はヴァルナの住まいであり、同時にヴィシュヌの住まいでもあるとされている。

・水の宝庫である海は、大魚ティミンギラやジャシャ、マカラに満ち、何千もの様々な種類の生物に溢れ、恐ろしいものたちによっても克服しがたく、亀やサメがひしめいている。あらゆる宝石の鉱山があり、ヴァルナの住処や、最高に美しいナーガたちの住処がある。海中の火がある場所でもあり、アスラたちの牢がある。海は、生物たちにとって危険で、常に揺れ動いている。

・ヴァルナは『マハーバーラタ』においても水に対する支配力を維持している。「ナラ王物語」では、ヴァルナはナラ王に「望むところで水が現れた」という力を授けた。
 ヴァルナの子とされる賢者バンディンの話も興味深いバンディンは論争において学者たちを破り、彼らを水につけて溺れさせていた。ヴァルナが水中でサットラ祭を行うので、優れたバラモンを水に入れてそこへ送ったのだという。バラモンのアシターヴァクラがバンディンを論争で破ったので、水に入れられたバラモンたちは、ヴァルナに敬意を表されて戻って来た。ヴァルナの子バンディンは彼らに代わって水に入ったが、ヴァルナの子であるので恐れることはなかった。
 ヴァルナはこのように天の水から海の水へと住処を移した。他方、ヴァルナとともに海を住処としているヴィシュヌは、ヴェーダ神話においては水とは重要な関連を持たなかった。しかしヒンドゥー主神としてのヴィシュヌは、水と切り離し難い関係にある。『マハーバーラタ』に記されている。マールカンデーヤ仙の語る次の話が、そのことをよく表している。

・ユガの終末が訪れ、一切万物は火によって焼きつくされ、神々も悪魔も半神族も、人間も動植物も全てが滅んだ。その後、雲が湧き上がり天空を覆い、全地を豪雨で水浸しにした。世界は一面の大海原となった。マールカンデーヤ仙は大海原を漂いながら、何の生物も見つけることなく、長い間、避難場所を探していた。やがて彼は大海の中に一本のバニヤン樹を見つけた。その枝の中に童子が座っていた。
 童子は驚くマールカンデーヤに語りかけた。「私の体内に入って住みなさい」。童子が口を開けると、マールカンデーヤはその中へ吸い込まれた。彼はその中で一切の世界の営みを見た。海があり天空があり、太陽と月が輝き、大地と森がある。四姓の人々は各々のダルマに従事している。神々と神々の敵対者がいる。彼は世界中を経巡りながら、100年以上も童子の胎内にいたが、その体の果てを見出すことができなかった。
 やがて彼は童子の口から外に吐き出された。マールカンデーヤは言った。「この最高のマーヤーについて知りたい」。ヴィシュヌは答えた。「水はナーラと呼ばれる。水は常に私の住処(アヤナ)であるから、私はナーラーヤナと呼ばれる」。そして彼は万物に偏在する自身について説いた。

・マールカンデーヤは、終末についての別の話も語っている。
 恐ろしい洪水が起こり、動不動のものが滅亡し、全ての生き物が死んだ時、万物の根源であり不滅のプルシャである聖ヴィシュヌは、量りがたい威光を有するシェーシャ竜の大きな体の上で、ひとりで水の寝台に眠っていた。世界を作る者、聖なる不滅のハリは、大きな蛇の体によってこの大地を取り囲んで眠っていた。その眠っている神の臍に、太陽のように輝く蓮が生じた。そこからブラフマーが生じた。太陽か月にも似た蓮に、世界の長老であるグラフマーが姿を現した。

・このように、ヴィシュヌの住む海は時間的にも空間的にも人々の世界を超越したところにある。
 インド人は、世界観を果てしなく膨張させ、複雑かつ壮大な規模の宇宙を考えた。ヒンドゥー教の至高神は天上世界ではなく、さらに遠く、計り知れない宇宙の彼方にいる。そのように宇宙観が拡大し変化しても、至高神の住処が人知の及ばぬ最高に遠い場所であること、そしてそこに水が存するという観念は、変化していない。天水に住むヴァルナの形象は、宇宙の大海に憩うヴィシュヌによって受け継がれたと言えるだろう。

<マーヤー>
・至高神としてのヴィシュヌが用いるマーヤーは、このような単なる幻とは性質が異なっている。それは世界存在の本質に関わるマーヤーである。先に取り上げたマールカンデーヤ仙の話において、マールカンデーヤは童子の姿で原初の水に憩うヴィシュヌに、「あなたについて、この最高のマーヤーについて知りたい」と願う。ヴィシュヌはそれに答えて次のように世界に遍在する自身について説く。

・水はナーラと呼ばれていた。私がその名をつけた。常に水こそが私の住処(アヤナ)であるから、私はナーラーヤナと呼ばれる。私がナーラーヤナである。万物の根源であり、永遠にして不滅である。万物を創造するものであり、破壊するものである。万物の根源であり、永遠にして不滅である、万物を創造するものであり、破壊するものである。私はヴィシュヌである。ブラフマーである。神々の王である。私は祭祀である。水は私の口である。大地は両足である。月と太陽が両眼である。空と方位は私の身体である。風は私の心に存する。
 四つの海に囲まれ、メール山とマンダラ山に飾られたこの大地を、私はシェーシャ竜となって支える。かつて私は猪の姿を取って、水に沈みつつあるこの大地を力まかせに持ち上げた。
 私は牝馬の顔をした火となって、波立つ水を呑み、また吐き出す。
 バラモンは私の口である。クシャトラは両腕である。ヴィシュは両腿である。シュードラは両脚である。その力と順位において、このように配される。
『リグ・ヴェーダ』、『サーマ・ヴェーダ』、『ヤジュル・ヴェーダ』、『アタルヴァ・ヴェーダ』は私から現れ、私に入る。私は劫火の光であり、劫火の死神であり、劫火の太陽であり、劫火の風である。
 空に星々の姿で見えるもの、それらは私の姿であると知れ、全ての宝の鉱脈と、海と、四方位は、私の衣服、寝台、住処であると知れ、
 神々、人間、ガンダルヴァ、蛇、羅刹、及び不動のものを創り出してから、私は自己のマーヤーによりそれらを回収する。行為のときが来ると、私は再び姿を持つことを考え、人間の体に入って、道徳の規範を保つために自己を創造する。
 私は三界を跨ぐ者であり、一切のアートマンであり、全世界に幸福をもたらす者であり、超越者、遍在者、不滅の者、感官を制御する者であり、大股で闊歩する者である。私ひとりが時の輪を転じる。私は姿なきものである。一切万物を静止するものであり、全世界を始動させるものである。このように私のアートマンは一切万物に浸透している。そして誰も私を知らない。

・このようにヴィシュヌのマーヤーは、世界を作り出し、世界を維持し、それを滅亡させて回収する力である。同じ考えが、「バガヴァッド・ギーター」の次の詩節にも表れている。万物はヴィシュヌの意のままである。
 主は一切万物の心の中に存する。からくりに乗せられたもののように、万物をマーヤーによって回転させながら。
 ヴァルナのマーヤーが世界を作り出し、天罰を護るものであったように、ヴィシュヌのマーヤーも世界の創造とその維持に結びついている。
 マーヤーは、言うまでもなくヴァルナやヴィシュヌの占有ではない。しかし単なる幻術としてではなく、世界存在の本質に関わるマーヤーを用いるという点は、両者の特筆すべき類似点と言えるのではないだろうか。

・インド人を社会的に統一していたのはバラモンであった。インドの農民は武士や商人をそれほど重視しなかったが、バラモンに対しては「地上の神」としてこれを尊崇していた。バラモンと農民の結合は3000年余の歴史を通じて牢固たるものがあり、その密接な結合は、いかなる歴史的動乱によっても微動だにしなかった。
 
・ヴェーダ神話のヴァルナと、ヒンドゥー神話のヴィシュヌの間には、第一に、それぞれの神界の「至高神」であるという共通点がある。3000年の歴史を通じてインド神話を伝承してきたバラモンたちの間に、「至高神」に対する、ある程度確定された属性が存在したのではないだろうか。彼らは、ヴェーダ神話から継承した至高神としてのヴァルナの属性を、ヒンドゥー神話の巨大な宇宙観に沿った形に発展させ、ヴィシュヌに付与したのではないだろうか。
 このように考えると、ヴァルナとヴィシュヌの性質の類似は、おそらく偶然に起こった現象ではない。他方で、至高神としてのヴィシュヌのあり方は、宗教改革者が強力な意思のもとに古の天空神を復権させ、その至上権を極限まで高めたヤハウェやアフラ=マヅダとも異なる。至高神としてのヴィシュヌのヴァルナ的特徴は、非常に長い期間に、ほとんど無意識的に継承され、再現されていったのではないだろうか。
 
<マータリの地底界めぐり>
・『マハーバーラタ』の第五巻には、インドラの御者マータリの地底界めぐりの様子が物語られている。マータリは娘グナケーシーの婿探しを始める。まず心の眼によって神々と人間の間を探すがふさわしい相手は見つからない。神々、悪魔、ガンダルヴァ、人間、聖仙の間に気に入る婿は見つからない。そこでマータリは、竜族の間に婿を求め、地底界/地界に旅立ち、ナーラダ仙を案内役として様々な異界を見て廻る。

<ヴァルナ/ヴァールニーの御殿>
・王国を奪われたダイティヤ(アスラ、悪魔)たちの輝くあらゆる武器がここに見られる。

・マータリよ、ここにはラークシャサ(羅刹)の種族とブータ(地霊)の種族がいる。彼らは神的な武器を持っていたが、かつて神々に征服された。

・ここヴァルナの深い海において、巨大な輝きを有する[海中の]火が、眠ることなく燃えている。また煙を伴わない火を放つヴィシュヌの円盤が[ある]。

<バーターラ>
・ここ竜(ナーガ)の世界の臍に位置する場所に、ダイティヤとダーナヴァ(ともに悪魔の種族)が多く住む、バーターラと呼ばれる町がある。

・象王アイラーヴァタ、ヴァーマナ、クムダ、アンジャナ、これら最高の像たちはスプラティーカの家系に生まれた。

・第13節において、天界を獲得したはずの聖仙が、地底界バーターラに住んでいることになっている。天界と地底界が区別のつかないものとして考えられているようである。これは、垂直的世界観ではありえない。水平的・円環的世界観が見てとれるのではないか。

<ヒラニヤプラ>
・これは、ヒラニヤプラと呼ばれる美しい大都市で、ダイティヤとダーナヴァに属し、幾百ものマーヤー(幻力)で動き回る。

・それはヴィシュヴァカルマンの少なからぬ努力によって建てられ、マヤ(アスラの建築師)が思考によって設計したもので、バーターラの表面に建っている。

・アスラの都ヒラニヤプラについては、『マハーバーラタ』の他の箇所で、アルジュナによって悪魔たちの美しい楽園として説明されている。
 ヒラニヤプラだけでなく、もうひとつのアスラの都パーターラも、やはり楽園として考えられていたようである。

・意外にもこの地下の世界は一種の楽園である。わが国の「竜宮」を想起させる。地界から天界へもどったナーラダ仙は天神たちに語ったそうである。「地下界(パーターラ)はインドラ(帝釈天)の世界より楽しかったぞ。竜神たちがすばらしく美しい宝石で身を飾っているあの地下界に比べうるものがあるだろうか。ダイティヤやダーナヴァのかわいらしい娘たちが歩きまわり、どんな謹厳居士を魅惑してしまうあの地下界で歓喜しない人間がいったいいるだろうか。あそこでは昼は太陽が光を放って、しかも暑くなく、夜は月が光を放って、しかも冷たくない。ダーナヴァたちはすばらしい御馳走を食べ、強い酒をのみ、時がたつのを忘れている。美しい森、河、地があり、池には蓮の花が咲き、空にはカッコウの声が鳴りわたる。すばらしい装身具、かぐわしい香水、豊かな練り香料、弦楽器や管楽器や太鼓の織りなす音楽、等々、多くの魅力あるものが地下界の神々の日常品になっている」

<スパルナ(鳥族)の世界>
・これが、蛇を食べる鳥スパルナたちの世界である。勇猛さと飛行、重荷[を背負うこと]において、彼らにとって疲労はない。

・彼らは全て繁栄とともにあり、皆シュリーヴァトサ(卍)の印を持っている。皆繁栄を望み、強力である。

・マータリとナーラダ仙は地底界を旅しているはずだが、天空か空中の方がふさわしいと思われる鳥の世界に立ち寄っている。やはりここでも、地底界と天界が混同されている。

<ラサータラ[第七の地底界]>
・ここが、ラサータラという名の、第七の地底界である。ここに、牛たちの母である、アムリタから生まれたスラビがいる。

・竜の世界においても、天界においても、天宮ヴィマーナにおいても、インドラの世界トリヴィシュタパにおいても、ラサータラにおけるほど生活は快適ではない。

<ボーガヴァティー(竜の世界)>
・これが、ヴァースキに守られたボーガヴァティーという名の都である。それは神々の王インドラの最高の都アマラーヴァティーのようである。

・師は答えた。「そのふたりの女はダートリ(創造神)とヴィダートリ(運命神)である。黒と白の糸は夜と昼である。十二の幅を持つ輪を回している六人の童子は六つの季節で、輪は一年である。その美しい男は雨神パルジャニヤである。馬は火神アグニである。」
 普通に考えると天界の方がふさわしいと思われる、創造と運命を司るふたりの女神と、雨神・火神、季節を表す童子たちが、竜族の住処である地底界に住んでいることになっている。ここでも地底界と天界が混同されている。
 最後に、この『マハーバーラタ』におけるマータリの地底界遍歴譚全体に関して、次のようなことを指摘しておきたい。ラサータラには聖なる雌牛スラビがおり、ヴァルナの宮殿には数多の武器があり、ヒラニヤプラには富がある。つまり、インド・ヨーロッパ語族の三つの機能の全てが地底界にあることになる。文字通り、地底界は宇宙の基盤なのである。

<シヴァとスサノヲ  その奇妙な類似>
・ヒンドゥー教の主神のひとりシヴァと、日本の荒ぶる神スサノヲには、意外にも似ている点が多く見られる。本章では、表1にまとめたような両神の類似点について、ひとつひとつ確認していきたい。

<シヴァ>
(破壊と生殖)・世界を破壊   ・リンガ崇拝・生殖の神
(教示する神)・インドラの欲望を戒める   
(悪魔退治と武器)・三都の破壊 ・アルジュナに武器を与える
(荒ぶる神・罰・(宥め) ・ダクシャの供犠/弓が折られる/宥められる
(自然神として暴風雨を司る) ・前身ルドラは暴風神
(文化) ・踊り
(女性的なものとの一体化) ・妃たちとシャクティ
(イニシエーションを授ける) ・アルジュナに

<スサノヲ>
(破壊と生殖)・高天原昇天・岩屋籠り ・生殖の神オホクニヌシの祖先
(教示する神)・オホクニヌシに試練を与え、祝福する
(悪魔退治と武器)・ヤマタノヲロチ退治 ・武器を発見・アマテラスに献上
(荒ぶる神・罰・(宥め) ・高天原での悪戯/爪などを切られて追放
(自然神として暴風雨を司る) ・暴風雨神
(文化) ・歌
(女性的なものとの一体化) ・母・姉・娘への執着
(イニシエーションを授ける) ・オホクニヌシに

<破壊と生殖>
<シヴァ 世界を破壊>
・ヒンドゥー教の三神一体説・トリムールティにおいて、ブラフマーが世界を創造し、ヴィシュヌがその世界を維持し、最後にシヴァがその世界を破壊する。この時シヴァは悪い姿をしているので、マハーカーラ「大黒」という名で呼ばれる。

<シヴァ   リンガ崇拝・生殖の神>
・シヴァの象徴が男性の生殖器・リンガであることは言うまでもない。

<スサノヲ  高天原昇天・岩屋籠り>
・スサノヲはイザナキの鼻から生まれて以来、いい歳の青年になってもまだ泣き続けていた。その泣きざまがあまりに激しかったので、山々は枯れ、川や海はみな干上がってしまい、さまざまな災いが発生し、世界が危機に瀕した。
 次にスサノヲは、イザナキに追放されたので姉に挨拶をしてから根の国に行こうと考え、大騒動を引き起こしながら高天原に昇った。その様子もまたたいへん騒々しく、山や川を鳴動させ国土を震わせたという。
 その後スサノヲは高天原でのいたずらの結果、アマテラスの岩屋籠りの時と、三度にわたって世界に対して危機的状況をもたらしている。

<スサノヲ   生殖の神オホクニヌシの祖先>
・『古事記』でスサノヲはオホクニヌシに至る系譜を開く。オホクニヌシはスサノヲの六世の孫とされる。『日本書紀』本文ではスサノヲの子とされる。スサノヲの系統を引くオホクニヌシは美しい容貌の生殖と生産の神である。オホクニヌシは根の国の主となったスサノヲのもとを訪れることで、生産の力を手に入れる。古川のり子が述べているように、地下界という豊穣の源となる国の王として、スサノヲは役割を果たしている。

・神話において、破壊と生殖、死と生は表裏一体のものとして表わされる。スサノヲは自らの行動によって世界を危機にさらし、シヴァは時が来ると世界を破壊する。一方でシヴァは生殖の神でもあり、スサノヲは冥府の主として豊穣神オホクニヌシにイニシエーションを課す。この時のスサノヲは、冥界という豊穣の源と一体化していると言える。

<悪魔退治と武器>
<シヴァ  三都の破壊>
・シヴァ神の前身はヴェーダ神話におけるルドラ神であったと考えられている。そのルドラからシヴァへの過渡期を確認できる話として、ブラフマナ文献に三都破壊の神話がある。
 アスラたちは鉄・銀・金よりなる三つの城塞を持っていた。神々はそれを攻略するため、火神アグニを鏃とし、神酒ソーマを穴とし、ヴィシュヌを棹として、ルドラが矢を放ち、三都を破壊してアスラたちを駆逐した。

<スサノヲ  暴風雨神>
・スサノヲはイザナキが禊をしたときに、イザナキの鼻から誕生しているが、このことは、世界各地の神話における「世界巨人型」創世神話において、殺された巨人の鼻から風が生まれたことと同じ意味を持つ。たとえばインドの『リグ・ヴェーダ』では、原人プルシャの鼻から気息が生じたとされている。つまりイザナキの鼻から生まれることで、スサノヲに風としての本質が認められることが明示されている。

<なぜ似ているのか>
・本章ではインドのシヴァ神と日本のスサノヲ神の比較をし、八つの類似点を抽出した。しかしこの比較には重大な問題がある。両神の性質が確定した年代の問題である。
 本章で取り上げたスサノヲの諸側面は、『古事記』が書かれた段階で固体された性質である。一方、シヴァは、古い要素で紀元前1200年頃の『リグ・ヴェーダ』、新しい要素でシャクティ思想が出現する紀元後6、7世紀と、非常に長い期間にわたり、次第にその複雑な性質が形成されていった。したがって、両神の性質の類似から、何らかの系統的な関連を立証することは不可能である。本章ではただ、偶然の一致とするにはあまりにも似ている、「奇妙な類似である」と述べるにとどめる。

<小事典>
<アスラ>
・神々と敵対する一群の神的存在。悪魔、ダーナヴァ、ダイティアともいう、ヴェーダ神話においては特別な不可思議力を持つ神々のことを指し、特にヴァルナがアスラの筆頭であった。次第に意味を転じて悪魔を意味するようになった。ブラフマナ文献には神々がアスラから宝や富を奪う話がある。

<アマラーヴァティー>
・インドラ神の都。インドラの御者マータリが神的な戦車に乗ってインドラの都に行った。そこは神々、聖仙、半神族や天女たちが住み、白い蓮花サウガンディカが咲き乱れる美しい都であった。アルジュナは父神インドラに歓迎され、様々な神的武器を授かった。

<インドラ>
・戦神にして雷神。『リグ・ヴェーダ』において最も多くの讃歌を捧げられた。叙事詩以降は三大主神の下にあって相対的に力を弱めた。ヴェーダ神話からヒンドゥー教の神話を通じて、蛇のヴリトラを退治する話が名高い。工作神トヴァシュトリが造り出した怪物ヴリトラを、インドラはヴィシュヌの助言にしたがって、海辺で黎明時(または黄昏時)に、ヴィシュヌが入り込んだ泡を用いて殺した。この神話には、原初の混沌である蛇を殺害して秩序を打ち立てるという意味がある。
 『マハーバーラタ』ではアルジュナの父神であり、シヴァ神を通じてアルジュナに試練を課し、天界に招いて様々な武器を伝授した。日本では帝釈天と呼ばれている。

<ヴァルナ>
・『リグ・ヴェーダ』における宇宙の至高神、恐るべき呪術神でもある。法を司るミトラ神と一対の関係をなす。他の神々がデーヴァと呼ばれるのに対し、「アスラ」の称号を持つ。「アスラ」は後に悪魔を指すようになった。不可思議力マーヤーの操り手であるとされる。「天則」リタを守る神でもある。後に単に水の神とされるようになり、日本では水天と呼ばれている。

<ヴィシュヌ>
・ヒンドゥー教の三大主神のひとり、最大の特徴は化身「アヴァターラ」を多く持ち、それによって生き物たちを救うことにある。世界の始まりの時に、猪に化身して水没していた大地をすくい上げ、襲ってきた悪魔のヒラニャークシャを退治した。次には、頭はライオン、身体は人間の半人半獣の姿になって、ヒラニャークシャの兄弟のヒラニヤカシプを倒した。

<シヴァ>
・ヒンドゥー教のトリムールティにおける破壊神、『マハーバーラタ』の大戦争を導くため、ドラウパディーをこの世に誕生させた。ひとつの神話では、力に奢った五人のインドラ神を罰するため、彼らをパーンダヴァ五王子として地上に転生させ、その時の共通の妻としてシュリー女神を転生させ、ドラウパディーとして地上に送った。

<トリムールティ>
・三神一体の説。創造神ブラフマー、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァが、宇宙のひとつの最高原理の異なる現れであって、はじめにそれがブラフマーとして現れて世界を創造し、次にヴィシュヌとして現れて世界を維持管理し、最後にシヴァとして現れて世界を破壊するとされる。

<ヤマ>
・名称の意味は「双子」、『アヴェスター』のイマに対応し、その起源はインド・イラン共住期に遡る。太陽神ヴィヴァスヴァットの子で、最初の人間であり、死の道を発見し、冥界の王として最高天にある楽園に君臨している。古代インドの理想の来世観は、地上で100年の長寿を全うした後、ヤマの世界に到達し、祖霊と合一することにあった。後に来世観が変化し、ヤマの領土は地下へ移り、ヤマは悪業の懲罰者としての性格を備えるようになった。ヤマには神犬サラマーの子である二匹の犬がつき従っている。その犬たちは四つ目で斑があり、広い鼻をしている。死者の道を護り、死すべき人間を嗅ぎ出してヤマの世界へ連れていく。冥界を護る犬という点では、ギリシア神話の三つ頭の犬ケルベロスに比すことができる。ヤマは後に仏教で閻魔天となった。



『日本神人伝』
不二龍彦      学研     2001/5



<友清歓真(ともきよよしさね)>
・大正から昭和初期にかけて「仏教以前の古道に戻る」ことをスローガンに掲げた一大オカルト・ムーブメントが湧き起こった。「古神道」と呼ばれた、このムーブメントの理論的支柱として活躍した友清歓真の、知られざる生涯を追う。

・宮地水位が通った神集岳神界で暮らす人々の様子を水位以上の濃やかな筆でつづり、『玄扈雑記(げんこざっき)』にまとめあげた。

<異境に出入りし、その消息を伝える>
・本書では、自在に異境に出入りし、その消息を伝えた脱魂型シャーマンとしての友清を中心に紹介していきたい。というのも、友清が親しく出入りしたという異境が、おもしろいことに宮地水位の通った神集岳神界などの異境とまったく同じで、時代の推移による神都の変化や神都での人々の暮らしぶりなど、水位が伝えなかった部分まで、実に味わい深い筆で活写しているからなのである。

・友清は『異境備忘録』を読む以前に、そこに書かれてある幽界の消息を「感得」していたと、ここで明言している。そしてその後、水位の手記を入手し、読んでみたところ、その内容が自分の感得した内容と「大体において万事符を合した」、つまり事前に読み知った知識があったわけでもないのに、結果として水位の体験と自分の体験が一致していたのだから、彼らが参入した幽界は間違いなく実在するといっているのである。
 これはなかなかおもしろい事例である。シャーマンや霊媒が伝える霊界情報は世界中にゴマンとあるが、互いに無交渉の者同士の見聞が一致するといっているのである。

<霊感に打たれ、綾部の道を識る>
・「山口県の私の郷里から数里のところに泰雲寺という寺があるが、その寺の前位道逸というのは天狗になって、いまなおその裏山に住んでいる。私は少年時代、剣術が上達するようにと思って、その寺の裏山の滝を浴びにいったりしたことがあった。その道逸という天狗はマダ住職として寺にいる時から霊力があって、1日の間に宮嶋(30里位ある)へ行って遊んできたり、一寸の間に萩(10数里ある)へ豆腐を買いにいってきたりしたということを、村の者が話していた」(注・1里=約4キロ)

<大本と決別し、本田霊学に走る>
・綾部の大本を訪れた友清は、さっそく王仁三郎の右腕として辣腕をふるっていた浅野和三郎の鎮魂帰神を受けた。そのとき友清からでてきたのが、あまり高級とはいえぬ「天狗」で、彼がそれまで官憲と張り合ったり、種々乱暴なことを行ってきたのは、すべてこの天狗が憑っていたためと知れた。

<日本は、霊学宗源の国である>
・大正8年に『鎮魂帰神の原理及び応用』、翌9年5月には『鎮魂帰神の極意』を出版して大本の鎮魂帰神と一線を画した友清は、同年「格神会」を組織し、活発に古神道霊学の吸収と確立に乗り出す。

<太古神法の最奥義を受け継ぐ>
<大洗濯につながる大戦争が勃発する>
・このときを待っていたかのように「神人交通の先駆け、道ひらきの神」である大山祇神(おおやまつみのかみ)からの天啓が、友清に訪れる。

・友清は神示に従って山口県熊毛郡田布施町の石城山に登った。そして山上の石城神社拝殿に詣でたとき、突如として大山祇神による「十の神訓(山上の天啓)」を拝受したのである。
 天啓は、この石城山こそ、太古から定められていた大神たちの神山・神都――宮地水位のいう「神集岳神界」の地上版であると告げていた。

<神国日本の犠牲によって世界が一新>
・友清はしばしば幽界への散策を行い、「人間死後の生活における衣食住及び文化財の客観的実在」を機関誌に淡々と発表していった。

<『玄扈雑記(げんこざっき)』に記された霊界の実相>
・そのころの石城山霊界は、友清が昭和9年に訪れたころの石城山霊界とはずいぶん変わっていた。当時は九州1個ないし2個分ほどの広さに思えたが、それよりもっと広く、行政区画は3つか4つに更改されていた。人口も4万人と聞いたと思ったが聞き間違いで、実際には14万人住んでいるという。
 その西南部の一角の「小さな文化住宅式の、この界としてはあまり見栄えのしない家」に田畑氏は暮らしている。田畑氏の住む西部はどちらかというと鄙びて、住人も「のらくら者」が多いようだが、東部はそれより活動的で、人間界でいうと、科学的な研究機関や学校、工場のようなものもある。住まいも「米国あたりの最新の意匠による別邸とでもいったようなところがある」らしい。

・「この界では貧富はないとはいえません。現に私は、この界では富めるものではないといえましょう。求めるところは徳と知恵であるから、貧とはそれらが乏しいことを意味するといった観念論は別として、衣食住にしたところで、私はこの界で富めるものではありません。むろん何の不満も不平もありませんが、富めるものとは考えられません。私でも、この室内に欲しいと思う調度品があっても、ことごとく思うようになるわけではない。思念すればそこに品物が現れるというような、何だか変な頼りない霊界と違って、この霊界はほとんど人間界のような生活感情と条件の支配を受けているので、貧富ということも無意味ではないのです」

・ここで田畑氏がいっている「思念すればそこに品物が現れる」ような霊界は「たま」の霊界という。欧米の心霊科学や仏説などでは、あの世は思ったものがそのまま物質化して現れると説いているが、友清によればそれは霊界のうちの「たま」の霊界で、「欲する品物が欲するままにそこに現出する代わりに、注意を怠っていると消えたり、一瞬にして千里に往来したり、もやもやと雲のようなものが友人や知人の顔となり手となってついに完全な姿としてそこに出てきたり」する。

<神仙界といえども雨も雪も降る>
・貧乏とはいっても、田畑氏は立派な書籍を数多く所持している。人間界ではちょっと手に入らないものもあり、「洋装のものは多くは白い強い紙の仮綴じ」で、なかには「羊皮紙やモロッコやスペインの皮らしい豪華なもの」が無造作に書棚に押し込められていた。聞けば、図書館から気軽に借りだしたりコピーすることができるらしく、コピーといっても用紙から時代色まで原本と変わりないという。

・御本宮の祭神は大物主神、少彦名神、事代主神ほか9座。左右に別宮があり、右には上級神界(紫府宮神界)の主神である天照大神ほかが祀ってあるが、左は「異様な形式」の御社で、36座の神霊が祀られている。その中の「天寿真人」とは聖徳太子、「天方真人」とはムハンマドのことだと説明された。
 参道から枝になった小道を通り、暮春の野趣を楽しみながら田畑氏の庵に戻った。このときは暮春の心地よい天気だったが、いつもそうだというわけではない。人間界と同じで雨もあれば雪もある。「神仙界に類したところといえば、いつも天気晴朗で澄みきった世界を瞼に描きがちであるが」、そうはいかないのである。

・その帰途、友清は梅や竹が生えている野の空き地に建つ2軒の家を見つけた。「サイバル編輯(へんしゅう)所」という看板がかかっていた。あれは何かと田畑氏にたずねると、こんな答えが返ってきた。
「なに、つまらんもんです。川柳やドドイツまがいのものをやっている連中の同人雑誌です」

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