現在では、政府が宇宙人飛来に関する情報を隠蔽しているという話題は、いわばアメリカの神話として定着しており、議会でもしばしば情報開示を求める請求が政府に出される。(1)




『偽書が揺るがせた日本史』
原田実  山川出版社  2020/3/28



<偽書学>
・今年(2020年)は、日本最初の正史『日本書紀』の完成から千三百周年だという。
 中華文明における歴史叙述の代表的儀式である「正史」が日本でも採用されたというのは、この島国に暮らす人々の歴史意識に関する一つの画期だった。

・最近のアメリカでは、国民の政治的判断に、事実の確認よりも国民的な感情や偏見が優先される傾向が“post-truth”(脱真実)として問題視されている。さらにメディアの多様化によって、国民感情を挑発するような報道がチェックも不十分なまま横行し、一方でその種の、事実としては疑わしい報道こそ、国民が求める“alternative fact”(代替的事実)であるとして擁護する論法も現れている。
 これはアメリカ一国の問題ではなく、同様の風潮が日本を含む多くの国で蔓延しつつあるようである。「代替的事実」の温床となるのが陰謀論である。

・近年では、偽書というテーマについて学問的専攻の枠を超えた研究者同士が協力し合える環境も整いつつある。これによって「偽書学」ともいうべき新たなジャンルが生まれる可能性も見えてきたのである。

<偽書に力を加える「陰謀論」>
<偽書と相性のいい陰謀論>
・ここでいう陰謀論とは、歴史上の事象の説明に、陰謀を持ち出すことで明確な証拠なしに議論を単純化する、あるいはなんら証拠がない主張について、証拠がないことこそ真相が隠蔽された証拠だなどと強弁する論法のことである。
 近代史における陰謀論の典型は、アメリカ独立やフランス革命などが市民の蜂起によってなされたものではなく、秘密結社の計画によって起こされたものだというものである(その陰謀の主体としてはユダヤ人組織やフリーメイソンリー、イルミナティなどがよく名指しされる)。
 また、日本史で言えば本能寺の変において明智光秀の背後に黒幕を想定する、あるいは光秀は冤罪を被ったとして真犯人は隠蔽されたなどという、のも陰謀論の一種といえよう。
 陰謀論と偽書は相性がいい。たとえば、特定の偽書について、陰謀論を導入することで、これこそは隠蔽された歴史の真相を記したものであり、偽書扱いされているのは陰謀がまだ続いているからだ、といった擁護論が展開できる。

<韓国の民間古代史運動>
・韓国では、1970年代後半から80年代にかけて、民間古代史研究家のグループが、学界を非難する運動がさかんとなったことがある。民間古代史運動は、学問的には神話上の存在とされていた檀君(だんくん・朝鮮の国祖)とその王朝の実在を主張し、学界は歴史の真相を隠蔽していると訴えるものであった。

<1980年代に続出したアメリカの「公文書」流出>
・1980年代のアメリカでは、「MJ-12文書」「カトラー・トワイニング・メモ」「アクエリアス文書」「クリル・ペーパー」「リア文書」「ダルシー文書」など、アメリカ政府がすでに宇宙人と接触して密約を交わしている、という内容の「公文書」流出が相次いで起きた。その原因としては映画『未知との遭遇』『スター・ウォーズ』(1977)のヒットで生じた宇宙ブームもあったが、それ以上に大きな要因として、1972年のウォーターゲート事件や1975年に終結したベトナム戦争の経緯見直しを通じて、政府は国民を騙し続けていたという不信感がアメリカ社会に蔓延したということが挙げられる。
 現在では、政府が宇宙人飛来に関する情報を隠蔽しているという話題は、いわばアメリカの神話として定着しており、議会でもしばしば情報開示を求める請求が政府に出されたり、大統領候補者が異星人関連情報の公開を公約に織り込んだりし続けている。

<機密文書『アイアンマウンテン報告』の流出とその内容>
・アメリカにおける陰謀論関係の偽書と言えば『アイアンマウンテン報告』という文献もあった。それは1960年8月、当時は民主党大統領候補だったJ・F・ケネディ(1917~63)のブレーンたちが、長期的な平和を実現するために安全保障問題の専門家を招集し、2年間にわたって作成した報告書だという。その研究会の場所は秘密保持のために、当時、ハドソン川のほとりに設けられていた地下核シェルターの中に置かれた。「アイアンマウンテン」というのはそのシェルターの暗号名だったという。

・その内容は、次のようなものだった。すなわち、「平和」とは安定と秩序を意味するとすれば、戦争状態によってもたらされる安定と秩序もまた一つの「平和」とみなすことができる。したがって冷戦状態にある現在の体制を維持し続けることこそが恒久的平和であるとみなすことができる。
 現在の世界経済は戦争産業によって支えられており、その体制を維持するには軍事予算を確保することが必要である。

・また、国家間での戦争が廃止された場合には「平和」を維持するために宇宙からの侵略の脅威を宣伝するのも有効で、アメリカでしばしば起きる「空飛ぶ円盤」騒動はそれに備えての実験だったことを示唆する記述もある。

<邦訳版刊行とその余波>
・『アイアンマウンテン報告』が1967年に政府機密文書の公表という体裁で刊行された際には大きな話題となり、日本でも1969年に『戦争は消えない――アメリカの告白』という邦題で出版された。

・また、日本での余波として、ルポライターの赤間剛氏はこの『アイアンマウンテン報告』を根拠として、UFO現象を、アメリカ政府を中心とする国際的組織の情報操作と軍事技術隠蔽工作から説明する書籍『UFOのすべて』(1979)を著した。

<じつは政府報告書のパロディだった!>
・だが、『アイアンマウンテン報告』は作家・編集者のレナード・C・リュインが政府報告書のパロディとして書き上げたものだった。リュインは1967年当時、ベトナム戦争の泥沼にのめりこんでいたアメリカの国策を、パロディを通して批判しようとしたのである。

・政府の公文書に著作権はないという主張する人々は『アイアンマウンテン報告』海賊版の出版や配付を続け、リュインは終生、そうした輩と戦い続けなければならなかったのである。
 これらの事例は、民衆の側に陰謀論を受け入れる空気があれば、それを取り込むことで偽書も力を持ちうるという典型である。だからこそ、偽書の流行に対しては注意し続ける必要がある。荒唐無稽な内容の偽書が政治的に利用されることで災禍をもたらした例は歴史上、少なくないのである。

<戦前の弾圧事件に付きまとう陰謀論――『竹内文書』『九鬼文書』>
<『古史古伝』弾圧の見方>
・歴史的内容の偽書、とくに超古代史もしくは古史古伝と呼ばれるものは権力から弾圧されてきた――このイメージが形成されたのは1970年代のことだろう。さらにいえば、それらが偽書とされてきたのは、権力者の情報操作によるものであり、そこに権力者にとって都合が悪い真実が書かれているからこそ、偽書として断罪され、弾圧をこうむったという主張もネット上に散見される。

・古史古伝弾圧の代表的な事例としては、先述の『大成経』事件の他に昭和前期における『竹内文書』『九鬼文書』などへの弾圧があげられる。

<『竹内文書』は酒井勝軍の影響で、南朝から太古史へ?>
・『竹内文書』はもともと天津教という新興宗教で神宝としていた文書・文献類の総称である。
 その教主・竹内巨麿が茨城県多賀郡磯原町(現・北茨城市磯原町)で、天津教を興したのは巨麿自身の証言によると明治43年(1910)のことである。巨麿は富山県婦負郡神明村久郷(現・富山県富山市久郷)の出身で庭田伯爵家のご落胤を称していた。また、彼は南朝忠臣の末裔だった養父から南朝関係の宝物を引き継いだとも称し、大正時代から名士を集めて拝観させていた。

・ところが昭和に入ってからその名士の中に酒井勝軍という人物が加わってから天津教は奇妙な発展を遂げることになる。
 酒井はキリスト教伝道者であるとともに日本=ユダヤ同祖論者であり、ユダヤ陰謀論者でもあった。酒井は、モーゼの十戒を刻んだ石の現物が日本にあるはずだとの信念を抱き、天津教を訪れた。巨麿が酒井の求めに応じて、モーゼの十戒石や、広島県で酒井が「発見」した世界最古のピラミッドの由来を記した「古文書」などを出してくるうちに、巨麿の宝物において南朝関係より太古史関係の比重が大きくなっていったのである。

・それによって天津教は単なる新興宗教ではなく、かつて地球全土の首都として越中・久郷にあった皇祖皇太神宮を再興したものだと主張するようになった。
 天津峡の教義では、皇祖皇太神宮では、神武天皇以前の太古天皇が祭主を務め、天空浮船(あめそらうきふね)という空飛ぶ乗り物に乗って全世界を巡行していたとされた。さらにモーゼや釈迦、孔子、キリスト、マホメットら古代の聖賢も来日して皇祖皇太神宮で学んだとされた。ところが度重なる天変地異によって太古日本は衰微し、その歴史は忘れられていったのだという。

<「古文書」や年代記の公開と活字化>
・巨麿は拝観者たちに、天津教が伝える真の(?)日本歴史を記した「古文書」や年代記を見せたり、その活字化を許したりするようになった。
 その年代記ははるかな太古から神代文字(漢字伝承以前の日本にあったという文字)によって書き継がれてきたが、6世紀頃に漢字仮名交じり文に翻訳され、さらに巨麿の祖先によって書写されてきたものだという。

<第二次天津教事件勃発>
・昭和十一年(1936)二月、特別高等警察は、天津教本部と信者宅に押し入り、巨麿と茨城県・福島県内の信者の合計5名を検挙した。

・昭和五年の警視庁による取り調べを第一次天津教事件、昭和十一年の特高による検挙と起訴を第二次天津教事件という。

<狩野享吉による天津教古文書批判と予審敗訴>
・狩野は、第二次天津教事件で検察側の証人として「古文書」が偽作であることを証言した。

<大審院(最高裁判所)への上告趣意書>
・巨麿はさっそく控訴したが第二審でも敗訴(昭和十八年)。裁判は大審院(最高裁判所)に持ち込まれることとなった。

<大審院は無罪の判決を下すが、弾圧理由に陰謀論が発生>
・昭和十九年(1944)、大審院はついに巨麿に対し、無罪の判決を下す。巨麿の無罪が確定してからも、『竹内文書』などの天津教の御神宝約三千点は大審院に差し押さえられたままだった。その返還交渉の最中の昭和二十年三月、東京大空襲で、それらの御神宝は大審院とともに焼失してしまった。戦後に出版された『竹内文書』テキストはいずれも戦前の刊本から「復元」されたものである。

<三浦一郎による『九鬼文書』編纂>
・さて、第二次天津教事件の最中の昭和十六年(1941)十一月、当時の政界・宗教界におけるフィクサーで太古史研究家でもあった三浦一郎は、九鬼隆治子爵からの依頼で九鬼家に伝わったとされる古記録を整理、『九鬼文書の研究』という非売品の和綴本にまとめた。

<編纂者・三浦一郎の戦後の回顧>
・つまり、隆治は藤原が伝えていたという大中臣氏関連の古記録を預かった上で、それを九鬼家に伝わったものと称して三浦に提供したわけである。もっとも、『九鬼文書の研究』では、藤原提供の記録に基づくと思われる箇所も、聖書のノアやイエス(キリスト)と思われる人物が登場するなど荒唐無稽な記述が多く、それ自体も近代の偽作だった可能性が高い。

<「太古文献」論争>
・特高としては、大本を徹底的に弾圧している以上、大本の教義とよく似た内容の『九鬼文書の研究』に対しても警戒しないわけにはいかなかったのである。

<天津教弾圧の理由>
・第二次天津教弾圧と同時期に大本などの他の新興宗教への弾圧が生じていることや軍人によるクーデター事件が連発していることを考え合わせると、天津教弾圧の理由も、狩野が軍部に天津教支持者がいることについて危惧していたのと同様、民衆運動が軍部と結びつくことによるクーデター勃発・拡大の予防という国家の思惑を想定するのが妥当と思われる。

<日本にも上陸した史上最悪の偽書――『シオンの議定書』>
・あらゆる偽書の中でも史上最悪といわれるもの、それが『シオンの議定書(プロトコール)』なのは衆目が一致するところである。
 それは当初、ポグロム(19世紀末~20世紀初めのロシア帝国で蔓延したユダヤ人迫害)を正当化する文書として流布し、欧米諸国で反ユダヤ的傾向の火に油を注ぎ、やがてはナチスドイツの反ユダヤ政策の根拠に用いられて多くの人命を奪うことになった。
 1897年、ユダヤ人国家再建運動(シオニスム)指導者のテオドール・ヘルツルはスイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を招集、古代イスラエル王国があったパレスチナの地にふたたびユダヤ人国家を築くという目標を掲げた。

・『シオンの議定書』の内容は全24議定で、ユダヤ人組織が世界のマスメディアを掌握して各国でのイデオロギー闘争を煽る一方で、買収などで政府腐敗を促進し、ユダヤ人国家以外のすべての既成国家を瓦解させ、最終的にユダヤ王国の復興と世界征服の実現を成し遂げると説いている。

<コーンが解明した『シオンの議定書』の歴史>
・ユダヤ系英国人の歴史学者ノーマン・コーンは著書“Warrant for Genocide”(1970)で『シオンの議定書』の歴史を考証した。
・コーンによると『シオンの議定書』の登場は1903年、ロシア・ペテルスブルグの反ユダヤ主義系新聞においてであった。その新聞に掲載された形は現行のものより短く、「短縮版」と称せられている。
 1905年には、ロシア近衛隊が同様の内容のものをフリーメーソンの議定書抜粋と称して刊行する。

<英訳によりロシア帝国から世界へと拡散>
・1920年、アメリカの自動車王ヘンリー・フォード所有の新聞社で『シオンの議定書』英訳の連載が開始された。国家主義者であったフォードは、国家による統制を超えて活動する民族であるユダヤ人への不信感を隠そうとはしなかった。

・1922年、フォードは、外国人としては初めてドイツのナチス党に資金援助を開始した。アドルフ・ヒトラーはフォードの英訳本で初めて「シオンの議定書」の全文を読んだという。
 1933年3月、ドイツにおいて、ナチス党への全権委任が成立、議会政治は終焉を迎えた。これにより「シオンの議定書」はドイツの公教育にまで用いられるようになった。かくして、ナチスドイツは反ユダヤ主義を国是として、ホロコースト政策に突き進むことになるのである。

<『シオンの議定書』の種本は『モンテスキューとマキャベリの地獄対話』>
・さて、コーンによると、『シオンの議定書』の主な種本となったのは1864年、フランスの弁護士、モーリス・ジョリがブリュッセルで出版した匿名の小冊子『モンテスキューとマキャベリの地獄対話』である。

・「地獄対話」は、フランス第二帝政皇帝ナポレオン三世の強圧的な政治と人気取りのうまさを風刺した内容だった。『シオンの議定書』作者は、ナポレオン三世の政権掌握の技法をユダヤ人の陰謀に置き換えたわけである。
 こうして『シオンの議定書』が偽書であることは1920年初頭には判明していたのだが、『シオンの議定書』の拡散力はそのような批判など物ともしなかったのである。

<シベリア出兵を通じて日本上陸>
・日本に『シオンの議定書』が上陸するきっかけとなったのは大正9年(1920)の日本軍シベリア出兵だった。これにより、四王天延孝・安江仙弘ら陸軍軍人がロシアでニルス版の『シオンの議定書』を入手したのである。

<青年将校たちを扇動したクーデター指南書――『南淵書』>
<七世紀の秘書『南淵書』とは?>
・昭和初期は5・15事件(1932年)や2・26事件(1936年)など軍部によるクーデターが続いた時代だった。それに先立つ大正期に現れ、クーデターの正当化に利用された『南淵書(なんえんしょ)』という偽書がある。これは思想家・権藤成卿が自分の家に伝わった古書として世に出した文献である。
 皇極天皇四年(645)、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌子(のちの藤原鎌足)は、宮中で大臣・蘇我入鹿を暗殺し、蘇我本宗家を滅ぼした。いわゆる乙巳(いっし)の変だが、この二人が、かつて学問僧の「南淵先生」の下で共に肩を並べて学んだことは『日本書紀』にも明記されている。『南淵書』は鎌子の手による「南淵先生」の講義録だという。

・人祖(人類の祖先)が現れたのは北溟(ほくめい)(北の彼方の海もしくは砂漠)であった。最初に民に農耕を広め、衣食住を整えたり、舟を作って交易を始めたりした英雄を、民は敬って「素王」と呼んだ。すなわちスサノオである。
 素王の七代の子孫・オオムチは韓国では桓因(かんいん)(朝鮮国祖・檀君の祖父)、インドでは提桓因(だいかんいん)(帝釈天の別名)、漢では軒轅(けんえん)(中華の国祖・黄帝の別名)と呼ばれた。

・しかし、治世がうまくいくようになると怠惰で贅沢に溺れる者も出てくるようになる。日本では橿原(かしはら)天皇(神武)が武力を振るって社禝(しゃしょく)(権藤の用語では自治の単位となる共同体の意味)を立て直したが、その間にも中国大陸や朝鮮半島は乱れ、多くの国が並び立つようになった。
 高麗(高句麗)の永楽大王(広開土王。在位391~412)は朝鮮半島にいた秦族を迫害した。大鷦鷯(おおさざき)天皇(仁徳天皇)は秦族救援の兵を送って高麗と対峙した。永楽大王は日本の兵が強壮で屈しないことを知り、和睦を申し出た。
 わが国は和睦を受け入れたが、それ以降も朝鮮半島の混乱は続いている。さらにはわが国の中にも蘇我氏という社禝をないがしろにして国を乱すものが現れてしまった。
「南淵先生」はそれまでの歴史の流れをそのように説き、中大兄皇子に蘇我氏への制裁を促したというのである。

<権藤が摂政宮皇太子に献上、5・15事件勃発で話題に>
・大正11年(1922)5月、権藤は公爵・一条実輝の仲介を得て、摂政宮皇太子(のちの昭和天皇)に『南淵書』を献上した。

・また、この時期にはその「快挙」に合わせて『南淵書』の刊本も出版された。ところが権藤の期待に反して『南淵書』献上は大きな話題とならず、その刊本も歴史学会から長らく黙殺されていた。
 ところが昭和七年(1932)五月十五日、海軍青年将校が決起して犬養毅首相を殺害した5・15事件を機に『南淵書』への世間の注目が集まり始める。事件に関する新聞報道などを通じて、青年将校運動の指導者たちの間では権藤の著書や『南淵書』が読まれていていたことが知られるようになったからである。

<広開土王碑文の全文掲載が学問的な致命傷となる>
・もっとも、学問的には、論争の決着はあっけなくついた。現在の中華人民共和国吉林省 集安に広開土王の功績を記念し、414年に建てられた有名な碑文がある。現在では、長年にわたって碑文の拓本がとられたことによる摩耗や石の風化のため、読めなくなった箇所がある。ところが南淵先生は全文が読める時期にその写しをとっていたという。『南淵書』には南淵先生が読み上げた碑文の全文が収められている。

<『南淵書』執筆の動機とその後の再評価>
・権藤は、『日本書紀』に記された蘇我入鹿の専横を、当時の政府と重ね合わせ、乙巳の変のようなクーデターを指嗾(しそう)(人に指図してそそのかすこと)するために『南淵書』を書いたものと思われる。
 5・15事件の後、昭和十一年(1936)に陸軍青年将校が官庁を占拠し、高橋是清大蔵大臣や斎藤実内大臣ら高官や警察官を殺害した2・26事件の関係者の間でも権藤の著書や『南淵書』は読まれていた。『南淵書』がクーデター指南の書であった以上、それを真に受けて実行しようとする者がでることは避けられなかった。

・右翼にしろ左翼にしろ、急進的な社会変革を求める人々にとって、素朴な共同体への回帰を説き、クーデターを肯定する権藤の思想は心地よいものとして心に響くのだろう。『南淵書』はクーデター指南書として今なお危険な、そしてゆえに魅力的な偽書であり続けている(なお、権藤は『南淵書』偽作を終生認めることはなかった)。

<戦後の古代史ブームとともに――『富士宮下文書』>
・1960年代末に生じた邪馬台国ブームは、埋もれた「古代史」文献の再評価につながった。保守派の論客としても有名だった文芸評論家・林房雄は1971年の著書『神武天皇実在論』で『上記』とともに『神皇紀』を大きく取り上げ、「縄文時代約7千年の考古学的年代があるかぎり、全編を偽書と断じ去ることはできない」とした。林は『富士宮下文書』における富士高天原を縄文文化の王国と解釈し、その王権と現在まで続く天皇家との間に連続性を認めようとしたのである。

<オウム真理教の教義は偽書の寄せ集めだった>
<地下鉄サリン事件とオウム真理教>
・1995年3月20日午前8時頃、東京の地下鉄日比谷線・丸の内線・千代田線で猛毒サリンが使用され、死亡者計12人、受傷者ほぼ3千8百人という多数の被害者を出した。この地下鉄サリン事件との関連でクローズアップされたのが、それ以前から奇行でメディアを騒がせていた教団・オウム真理教だった。

・それら一連の犯罪をめぐる公判の過程では、オウム真理教の教祖・麻原彰晃が、国家転覆を視野に入れた教団武装化を目論んでおり、サリン製造はその計画の一環だったことや、天皇・皇太子暗殺や東京都民大量殺戮を含むさまざまなテロを計画したことがあることも明らかにされた。

<開教当時は偽史運動だった――ヒヒイロカネ・酒井勝軍の予言>
・95年から96年にかけてのオウム真理教関連報道でクローズアップされたのは、この教団の教義がオカルト雑誌などでおなじみの要素の寄せ集めであることだった。それらオカルト要素の中でも、とくに開教当時のオウム真理教に大きな影響を与えたものの一つに『竹内文書』がある。
 麻原は、1985年、オウムの会代表・麻原彰晃として、オカルト雑誌『ムー』の読者投稿欄に「実践ヨガ」を連続掲載する一方、同誌の同年11月号(第60号)には、やはり麻原彰晃の名で記事「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した⁉」を発表した。
 ヒヒイロカネとは、『竹内文書』に出てくる金属の一種である。竹内巨麿のブレーンの一人だった酒井勝軍は、このヒヒイロカネについて、鉄に似ているが決して錆びることがない神秘金属であると主張していた。

・また、麻原はそこで酒井の隠された予言を知ったという。その内容は次のとおりである。
「・第2次世界大戦が勃発し、日本は負ける。しかし、戦後の経済回復は早く、高度成長期がくる。日本は、世界一の工業国となる。
・ユダヤは絶えない民族で、いつかは自分たちの国を持つだろう。
・今世紀末、ハルマゲドンが起こる。生き残るのは、慈悲深い神仙民族(修行の結果、超能力を得た人)だ。指導者は日本から出現するが、今の天皇と違う」
 麻原は、さらにヒヒイロカネによる超能力増幅でハルマゲドン後の光景まで霊視することができたという。

・麻原の言うところの、酒井の隠された予言なるものはマユツバ物である。過激な天皇主義者であった酒井にとって、日本が戦争に負けるだの、天皇以外の指導者が立つなどということは口が裂けても言えなかっただろう。実際、酒井が晩年まで編纂していた雑誌『神秘之日本』には、この予言なるものと対応する記述は見られない。
 それに「神仙民族」などという語彙も酒井勝軍の著作にはまったく見られないものである。ちなみに、この記事が『ムー』に掲載された翌年の1986年、「オウムの会」は、「オウム神仙の会」と名を改めて再発足している。



『世界を動かした「偽書(フェイク)」の歴史』
中川右介   KKベストセラーズ  2018/1/19



<29の古今東西の「偽書」>
・「偽書」は「読み物」として面白いのである。もちろん、「偽書」と知ったうえでの話だが、多くの人が騙されるだけあって、実によくできている。そういうわけで、不謹慎かもしれないが、「面白い本」のガイドブックでもある。

・そう—―世の中はウソだらけである。ネット社会になって、ますますフェイクは増えるだろう。
 何が信用できるのか、誰を信用していいのか――実はこういう問題は、大昔からあった。インターネットの普及で、より多くのウソとデマと捏造が瞬時に広範囲に拡散するようになっただけの話で、ひとは古来から騙されてきた。
「ウソ」というものは、おそらく人類が言語というコミュニケーション手段を会得したときから生まれている。

・こういう「紙に書かれたもの」への信頼を逆手に取ったのが「偽書」と呼ばれるものだ。フェイクニュースの元祖とも言うべきもので、日本のみならず世界各国にある。
 政治を動かし、結果として何百万人もの命を奪うきっかけとなる「偽書」もあれば、マニアックな世界内で混乱を招いた「偽書」もあるし、いまとなっては笑い話ですむような「偽書」もある。

・政治家は、大衆を騙すフェイクニュースの発信者であるケースもあるが、実は、「偽書」に騙されやすい人びとでもある。時として「偽書」を信じた権力者により、とんでもない禍が生じることもある。ヒトラーのナチスによるホロコーストが「偽書」によって生まれたと知ったら、驚くであろう。「偽書」には、それだけの悪魔的な力があるのだ。

<誰もが騙される可能性を持っている>
・インターネットの普及によって、誰もが情報発信者になれ、情報の伝達者にもなれるようになった。テレビや新聞で宣伝するよりもはるかに安いコストで商品を知らせることができるし、出版社が出してくれない小説を自分のブログで公開して読んでもらうこともできる。ユーチューブからは多くのヒット曲やミュージシャンが生まれている。
 何かを発表したい、表現したい人びとにとっては、ありがたい世の中となった。

・これは、「偽書」を作りたい人にとっても、ありがたい世の中なのだ。これまでの偽書は、「紙」が信頼性を持っていたのを逆手に取り、あくまで「紙に書かれた文書」として出没したが、これからはネット空間での「偽書」(すなわち、フェイクニュース)がますます増えるであろう。

<『富士宮下文献』富士山にまつわるもうひとつの古代史>
<富士山は、神々の住む世界だった>
・『古事記』によると、神々のいる場所は「高天原」で、天上にある世界である。

・その高天原の候補地としては大和地方の葛城とか、宮崎県の高千穂、あるいは熊本の阿蘇など全国各地にあるが、そのひとつが富士山である。
 なるほど、高天原が天上にあるとしたら、そこに最も近いのが富士山である。
 かくして、ここに登場するのが、『富士宮下文献』である。
『富士宮下文献』も「古史古伝」のひとつだ。最大の特徴は、富士山が高天原であると証明された点にある。もちろん、この文章を信じるとしての話だ。
『富士宮下文献』は、山梨県富士吉田市の旧家である宮下家に伝えられていた古文書で、「富士文献」「宮下文書」「宮下文献」などと呼ばれることもある。

・当初は富士山と高天原のことは話題にならず、もっぱら南朝時代のことが詳細に書かれているというので、歴史研究者の間で話題になっていたようだ。

・徐福が日本に来たとして、どこに住んだのか。これは日本各地に伝説が残っているが、『富士宮下文献』では、富士山麓に住んだという。徐福は富士山が伝説の蓬莱山だと考えていたのだ。中国の最新技術を日本人に伝授したことで、すっかり信頼を得た徐福は、富士山麓に住む人びとから、「富士山は、昔、高天原という神々が住む世界だった」という衝撃の事実を教えられた。
 それが五つの王朝の話である。徐福はこのままでは貴重な歴史が失われてしまうのではないかと考え、阿祖山大神宮の宮司や、神々の子孫たちにその先祖の話を聞いて書き記したり、神代文字で書かれた史料を漢文に翻訳したりした。
 徐福一代ではその仕事は終わらず、彼の子孫たちが書き継いでいき、膨大な量の文書ができた。
 その後、富士の北麓には古代都市ができ、徐福の文書はそこにできた阿祖山大神宮に保管される。

<宮下家の苦難の歴史>
・これだけ時の権力者の弾圧を受けながらも、文書は宮下家によって死守されてきた。この古文書が明治十六年になって封印が解かれたのだ。

・古文書を守り続ける一族のほとんどが南北朝時代に南朝に属するのも、「時の権力者からの弾圧」を受けるためだ。

<誰が作ったのか>
・この『富士宮下文献』が発表されたのは、1921年のこと。三輪義熙なる人物の著書『神皇記』に、その一部が紹介されたのだ。
 それは膨大な『富士宮下文献』のなかの、神々の時代が書かれた「開闢神代暦代記」の部分である。

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