我邦、古より天狗と称する者多し、皆霊鬼の中、其の較著なるものが天狗であり、狐・童・僧侶・山伏・鬼神・仏菩薩などの姿で出現する。(1)




『怪異をつくる』
日本近世怪異文化史   
木場貴俊  文学通信 2020/3/26



<怪異はつくられた>
・「つくる」いとなみは、多種多様です。怪異だと認識することも、当然「つくる」いとなみです。ある物事が誰がどのような理由で怪異だと決めたのか、その判断は、歴史性を帯びています。例えば、古代の律令国家では、国家つまり政権しか怪異の認定をすることができませんでした。もしも個人が勝手に「あれは怪異だ」と言いふらしてしまえば、その人は処罰を受けることが法で決められていたのです。

<フィクションとしての恠異>
<林羅山『本朝神社考』「僧正谷」を読み解く>
<『神社考』「僧正谷」について>
・そして、考察の対象である「僧正谷」は下之六に収録される天狗に関する項目である。
「僧正谷」での羅山評は大きく二つに分けられる。一つは、『神社考』の趣旨と同じく、天狗に絡めた僧侶批判が展開されている。「我邦、古より天狗と称する者多し、皆霊鬼の中、其の較著なるものが天狗であり、狐・童・僧侶・山伏・鬼神・仏菩薩などの姿で出現する。また慢心や怨み、怒りを持った多くの僧侶も天狗道に入って天狗になり、伝教(最澄)・弘法(空海)・慈覚(円仁)・智証(円珍)の四大師をはじめ日蓮・法然・栄西など日本を代表する名僧は、皆天狗だと指摘している。要するに、羅山は全ての僧侶=仏教界そのものが天狗、という認識を持っていた。
 二つは、他の天狗に関する話の紹介である。観応の擾乱の予言として有名な『太平記』巻二七「雲景未来記事」における天狗評定の場面や本章で扱う大坂の陣にまつわる話などである。

<天狗の人攫(さら)い>
・Aの内容は、比叡山の二郎という「覚林坊之奴」が天狗に攫われ、数日後帰山して天狗たちの会議について語った後、二郎自身が奇矯な行動をとる、という事件である。

・『神社考』と『駿府記』を比較すると、いくつかの重要な点が見られる。まず『神社考』では「叡山僧侶」が語ったとしているだけで、具体的に誰なのかははっきりしない。しかし『駿府記』の傍線部を見ると、「南光坊僧正」すなわち当時江戸幕府で強大な力を持っていた、天海その人だと判明する。当時僧侶が駿府城に登って宗教論議をすることはよくあり、これもその折の話題だったと推測できる。説法の方便として怪異譚はよく用いられており、羅山は仏教批判として読み取ることが可能である。また、僧侶=天狗という「僧正谷」の主題からは、「天狗が天狗の話をする」という揶揄としても受け取ることができる。
 共通する点として、比叡山に戻ってきた二郎の奇矯な行動(二郎も天狗の仲間入りをしている)や不思議な現象が起きるが、これに対し僧侶たちはただ為すがままである。従来、恠異(かいい)が起きると加持祈祷などの宗教儀礼を行うことで対応するのだが、Aの場合、天海はじめ天台僧は何の対応もしていない。この眼前の出来事に対して無力な僧侶に、羅山は単に仏教批判とするだけでなく、後に対策を練る家康と対照させる効果を狙ったのではないだろうか。
 他にも、Aの傍線部を見ると、「久無奇怪、東州西州合戦、今其不遠(中略)東方必勝、其勢既見」の部分が『駿府記』には見当たらない。そもそも『駿府記』では、大天狗たちが比叡山に登る予告が語られているだけである。「東州西州合戦」、つまり大坂の陣が起きるという天狗の予言がなければ、大坂の陣にまつわる恠異として成立しない。要するに、この記述は羅山によって書き加えられた可能性が高い。
 また、「幕下聞而奇之」、幕下=徳川家康がこの事件を不審に思ったという記述もない。天海が語った際その場に家康がいたかどうかは不明だが、おそらくこれもBへの伏線として羅山が加筆したものだろう。
 総じてAは、おそらく羅山も引いている『太平記』の天狗評定に擬えようと、天海の語り手を入れた羅山の創作だといえる。

<伊勢躍>
・続いてBの伊勢躍について検討する。伊勢躍(神踊・風流踊とも)とは、伊勢神宮の神に関係して起きる群集騒動である。
 しかし、Bを見る限り「僧正谷」に欠かせない要素、天狗が全く登場しない。羅山は、何故伊勢躍を「僧正谷」に収録したのだろうか。
 推測であるが、天狗評定に見られるように『太平記』では、天狗は変革の象徴として描かれる。そしてBの「庶民飾異服、繁綵絹千竹竿」からは、このかぶき者は中世では「異形異類」と称された人たち(天狗を表現する言葉でもある)の流れを汲んでいた。また、集団蜂起の一形態である一揆は、天狗や異常な服装と深い結びつきがあった。これらのイメージが、天狗と伊勢躍を結びつけて「僧正谷」に収録されることになったのではないだろうか。
「僧正谷」の伊勢踊は慶長一九年に起きているが、『神社考』成立の寛永末まで視野に入れると、数回にわたって伊勢躍が起きている。

・一体伊勢太神宮は何と戦っていたのだろうか。
 多くの研究者は、当時禁教の対象であったキリシタン、つまりキリスト教の神が相手だという。例えば山口啓二は、村井早苗が「キリシタン禁制をめぐる天皇と統一権力」で取り上げている元和七年(1621)の日本イエズス会管区長パアデレ・マテウス・デ・コウロスの書簡(伊勢躍で歌われたキリスト教排斥の歌)から、中世以来の伊勢信仰が鼓吹した排外的な「神国」意識との関係を指摘している。つまり、多くは、伊勢躍の前後に起きるキリスト教弾圧と伊勢躍の背景にある「伊勢の神」とを関連させて考えているが、管見の限り伊勢躍に関する史料で、明確にキリスト教と結びつけるものは先のイエズス会管区長の書簡以外確認できなかった。むしろ『当代記』の「むくりと波及合戦由にて神風烈吹」のように、伊勢躍を記録した当時の人たちにとって、神々の戦いといえば日本の神と蒙古(漠然としたイメージの異国)の神との戦いを想起したのであり、キリシタンのみに対抗するという意識は史料で見る限り不明瞭である。

<大坂の陣にまつわる話の位置付け>
・第二・三節から「僧正谷」の大坂の陣にまつわる話が、羅山の創作だと判明した。では何故羅山は改作をしてまで『神社考』の「僧正谷」に収録したのだろうか。

・ここから羅山は『六韜』を媒介に家康と繋がることで、自らの地位を高めようという意図があったとも考えられる。

・「僧正谷」で、家康は伊勢躍に対して『六韜』に依拠した禁制を行った。しかし羅山は、書名を明らかにせず、あくまで家康の発言という体裁にしている。ここには、中華の書物よりも家康の方に権威があるという羅山の思惑があったのではないだろうか。

・いわば「僧正谷」の話は、家康神格化に力を注いだ天海を天狗に貶める一方で、自らの思想(儒学・兵学)に基づいて創出した、江戸幕府の正当性(正統性)を保証する羅山の作品であった。

<語彙>
<辞書に見る怪異>
・第三章と補論二では、本草学の視点からモノとしての怪異を考えた。そこでは、当時怪異を生類として捉える理解があったことを確認した。

<分類される妖怪・化物>
<節用集での分類>
・言葉を確認する上で、まず用いるのが辞書である。辞書は、当時流布していた、あるいは古来より使われてきた言葉の集積、つまり常識の一端を示すものであり、編纂時の通念を把握するための適当な史料といえる。本章で扱う時期の代表的な辞書として、節用集(室町中期成立)と下学集(1444成立)があり、それぞれ各部門への言葉の分類を行っている。そこで節用集を中心に、妖怪や化物という言葉がどのように分類され、理解されていたかを見てみよう。

・妖怪は全て、そして化物は分類に揺らぎがあるもののほとんどが、畜類門や気形門と呼ばれる部門、すなわち生類(禽獣虫魚)に該当する部門に分類されている。

<化生(けしょう)とは何か>
・注目したいのは、本林本より前の古本節用集の「妖怪」には必ず、「化生物也」という注が付けられている点である。下学集では、「妖恠(妖怪)」は態芸門(現象や状態を指す部門)、つまり事象=コトとして分類されているが、必ず「化生(ノ)物」という注が付けられている。この「化生」とは、何だろうか。
 化生とは、『倶舎論』などに見られる生物の四つの生まれ方を指す仏語「四生」(胎生・卵生・湿生・化生)の一つで、何もないところから忽然と出生すること、および出生したもの(無から有)、また形を変えて生ずることを指す。化生によって発生するのは、天人や獄卒から、鰻(山芋から)蛤(雀から)まで多種多様である。

・イエズス会宣教師が収集した情報によれば、化生(の物)とは、変化、つまり化ける属性を持つもの、言い換えれば「化け」物に他ならなかった。また、化生は変化といっても、(便宜的に読み換えて)「変化(へんか)」(=化成、元に戻れない)と「変化(へんげ)」(=変身、元に戻れる)の両方の意味を含んでいる点にも注意したい。

<妖怪と化物の関係>
・化生が、化ける属性を持つ言葉であるならば、妖怪と化物はどのような関係にあったのだろうか。『日葡辞書』には、
Baqemono.(化物)………他の物に姿を変えたり、似せたりした物。例えば蛇、狐などの姿で現れる悪魔など、
Yōquai(妖怪)……「妖ひ怪しい」わざわいと危険なことと。
 とあり、妖怪は事象を指し、物象である化物と区別されている。

<揺らぐ位置と意味>
・そして18世紀以降、化物は継続して生類として載る一方、妖怪は節用集への収載が激減してしまう。

<固有名詞的な怪異の分類>
・本節では、妖怪や化物という普通名詞的なものではなく、より特定の怪異を指す、いわゆる固有名詞的な対象について、再び節用集を中心に見てみたい。

<鬼(おに・をに)>
・易林本より前の諸本では畜類・気形門に分類されていたが、易林本以降、人間に関わる人倫門に分類される。

・18世紀以降も多くが人倫門に分類されるが、生類の部門に分けられるものも少し確認できる。ただし、18世紀以降は、節用集には必ず載る語彙ではなくなっている点に注意したい。

<樹神(木魅 こだま 以下、樹神を統一表記として用いる>
・易林本より前の諸本で畜類。気形門に分類されていたが、易林本以降は、ほぼ全ての諸本で神祇門に分類される。

<河童 かはらう・かわらう>
・節用集では、18世紀の諸本まで大方「獺(かわうそ) 老いて河童(という者)に成る」と表記される(下学集も同様)。江戸時代に入っても、老獺の変化=化生の結果という位置に留まっていた。

・河童の表記については、中国の「水虎」に「かっぱ」「かわたろう」「かわらう」などの読みが当てられる場合がある。

<天狗・魔・魔王・魔縁・天魔>
・天狗は、易林本より前の古本節用集では、畜類門など生類の部門に分類されている。しかし、易林本が刊行される慶長期以降18世紀前半頃まで、主に人倫門の語彙として分類されるようになる。また、天狗は、「天人」という易林本で新しく登場する語彙と並んで収載されている点にも注目しておきたい。
 18世紀後半になると、天人の掲載は減少していく。一方、天狗は気形門に分類される諸本が増えてくる。

・魔王は幕末の節用集まで見られるが、魔緑は享保頃から次第に収載が減る。一方で、数は多くないが、再び魔が気形門に見られるようになる。

<山の怪異>
・慶長以降の諸本は、神祇門に「山魑(やまのかみ)」を収載している。

・他の山の怪異として、山びこ・山丈・山姑にも注目したい。

<姑獲鳥(こかくちょう)>
・姑獲鳥は、難産で死んだ女性が化する中国の怪鳥である。日本でも、平安時代の本草書や医学書で既に紹介されているが、広く知られるようになるのは江戸時代になってからで、同じく難産で死んだ女性の変化であるウブメ(産女)との同定が大きく影響している。

<独得な分類 新しい節用集>
・江戸時代の節用集は、易林本を基にして展開すると先述したが、17世紀後半以降、易林本を換骨奪胎し、独自の分類編集をした新しい節用集が登場する。

<河童>
<人が怪異を記録するいとなみ>
・前章では、ウブメの歴史を辿ることで、歴史的産物としての怪異の側面を描出した。本章も同じく個別の怪異を扱うが、ここでは怪異を記録・解釈するいとなみについて考えてみた。そこで、河童を取り上げる。
 河童に関する研究は、枚挙に暇がない程膨大な数がある。そこで解明されてきたのは、主に地域分布や起源、時代的・身体的特徴など、いわば河童の生態であった。
 こうした河童に関する多くの研究蓄積は、一方で河童に関する情報もそれ相応に多くあることを意味している。特に、現代人が聞き取り調査できない前近代的のものについては、誰かが河童の記録を残してくれたおかげで研究が可能となっている。では、その誰かは何故河童を記録したのだろうか。
 そこで本章は、河童を記録した人びと、あるいは河童を記録する行為そのものに注目したい。例えば、記録行為の理由が学問的なものだとしても、学問分野によって内容や解釈は異なるし、また同じ学問分野であっても個人差が生じる。
 別に、記録史料そのものについても、中立的・客観的なものではなく、記録者(書き手)の主観や思惑、社会的背景がバイアスとして記述に大きな影響を与えている点に注意しなければならない。こうした記録行為の背後にあるバイアスを意識しながら、記録史料を解読する必要がある。

<河童とはなにか?>
<辞書の類から――生類としての河童>
・まずは、当該時期における河童の通念的な理解を確認しておこう。そこで、当時の辞書類を引いてみる。辞書は当時流布していた言葉の集積、つまり常識の一端を示す重要な史料である。ただし、辞書といっても、編者の置かれた社会的環境に規定される部分があることに注意しなければならない。
 最初に取り上げるのは、室町時代の辞書の節用集(室町中期成立)と下学集(かがくしゅう)(1444成立)である。節用集・下学集双方の気形門・畜類門など、生類に関する部門全てに、河童に触れた記述がある。

獺(かわうそ) 老いて河童(といふ者)に成る

中には、「河童」に「がはらう(がわらう)」と仮名が振られている場合もある。これが「河童」という言葉の、現在確認できる初出である。

・次に、イエズス会宣教師によって作成された『日葡辞書(にっぽじしょ)』を見てみる。イエズス会は現地の文化に敏感であり、それを踏まえて布教を行っていた。『日葡辞書』は、宣教師たちが日本(西日本を中心に)で収集した語彙の集大成で、慶長八年(1603)に長崎で刊行された。この『日葡辞書』でも、河童の項目が確認できる。

Cauarǒ.(かはらう 河童) 猿に似た一種の獣で、川の中に棲み、人間と同じような手足をもっているもの。

<化生して河童となる>
<河童は水虎か?封(ほう)か? ――本草学をめぐって>
<林羅山の先駆的な同定>
・では、封や水虎とは一体何か。『本草綱目』によれば、水虎は虫部湿生類「渓鬼蟲」の附録、封は獣部怪類に分類されている。いずれにも共通しているのが、河辺にいる小児のようなものという点である。この点に注目して、羅山は双方に河童に関する和名を当てたのだろう。
 この封と水虎と河童をめぐる羅山の同定は、後に議論を巻き起こす。それは、水虎と封のどちらを河童と同定するのがより適当か、というものである。

<封か水虎かをめぐる主張>
・まず、福岡藩儒の貝原益軒の主張を見てみる。彼の著作『大和本草』(1709成立、1715刊)は、『本草綱目』の分類に疑義を呈し、より日本に適した分類と品目収録を行った、日本の本草学の画期となった書物である。

・河童と水虎は「同類」だという。河童という獣=水虎が益軒の主張であった。

<河童を記す営為――本草学・儒学の視角から>
・前節では、河童と中国の水虎・封の同定の変遷を見てきたが、そもそも知識人たちは何故河童を記録しようと考えたのだろうか。

<貝原益軒の思想>
・最初に、貝原益軒の本草学における河童の位置付けを考える。源了圓は『大和本草』に「河童が獣類の中にはいるような誤まり」と言及しているが、これは現代的な視点からの評価であり、当時の実態に即したものではない。

・河童は狐と同じく人に害を為す「妖獣」というのが益軒の理解であった。

<新井白石の思想>
・次に、17世紀から18世紀前期にかけて活躍した儒者新井白石の『鬼神論』(成立年不詳、1800刊)を取り上げる。これは儒学(朱子学)の重要な概念である「鬼神」について、博識な白石が膨大な知識とともに自説を披歴したものである。朱子学では、異常な道理で発生した鬼神を[怪異]と理解している(鬼神も[怪異]も気から生じる)ため、[怪異]についても『鬼神論』で言及されている。この『鬼神論』にも河童に関する記載があるので、白石の[怪異]観と河童の位置付けを併せて見てみたい。
 まず化生について。白石は、化生を「物化の変」と表現している。

・このように白石もまた自身の儒学に基づいた解釈を通じて、河童を[怪異]として論じていたのである。

<古賀個庵の思想>
・古賀個庵(こがとうあん)は、古賀精里の子で、幕府の学問機関である昌平黌で儒官を勤めた人物である。

・「予意」以降が侗庵の見解だが、これは先の益軒と白石の説を参考にするとわかりやすい。「天地間」は道理の内にある世界、すなわち理と気で構成される世界を指す。水虎はその世界にいる「一怪物」、つまり異常な気から発生した物と理解できる。

・以上、三人の河童に関する思想を検討した。ここからわかることは、一概に本草学あるいは儒学(朱子学)といっても個々で視角がことなるため、その言及される内容には差異があった点である。しかし、河童を儒学的に異常な物として見る点など、共通点もある。こうした相違点と共通点の検討を通じて、一律の評価ではなく、近世の本草学の多様な実態を明らかにしていく必要がある。

<「名物」河童>
<『日本山海名物図絵』>
・最後に、本草学の実用的な側面、つまり物産(特産物)の面からも言及しておきたい。物産については、特に宝暦期以降の動向が注目される。宝暦期は、諸国での藩政改革にともなう殖産興業政策によって、地域の特産物の生産が奨励される時期に当たり、また宝暦七年(1757)本草学者田村藍水・平賀源内師弟による物産会が湯島で開かれるなど、各地の特産品(珍奇な物品も含む)に注目が集まっていた時期である。

・河童は、巻之三「豊後河太郎」として、絵図とともに解説が記されている。

<豊後名物としての河童>
・豊後国「名物」としての「河太郎」は、徹斎によって発見されたものかというと、そうではない。実は、「豊後河太郎」は『名物図会』が刊行される前から、「名物」として有名だった。それは、先の『和漢三才図会』巻八〇「豊後国土産」に「川太郎」が記されるよりも前、17世紀からのことである。

・例えば熊本市の「渋江公昭家文書」に代表される、北九州を中心に活動した渋江氏による河童(水神)信仰が挙げられる。

・渋江氏の研究自体まだ端緒についたばかりで、今後明らかにしなければならない課題は山積している。しかし、河童信仰に関する成果と学知としての河童、そして社会通念としての河童を併せて考えることで、近世段階の河童をめぐる文化状況について、より明確に把握することができるだろう。



『神仙道の本』(秘教玄学と幽冥界への参入)
(学研)2007/3



<山人界(天狗界)>
<多種多様な天狗らの仕事と生活の実際>
<高級山人が住まう壮麗な宮殿>
・山人とは山の神のことだが、天狗の異名として用いられることもある。「お山には善美を尽くした広大結構な御殿があり、三尺坊は平生には、そこに居られますが、亦、空中にも大なる御殿があってここにも多くの方々が居られます」。

<山人界の天狗の風体とは>
・天狗というと鼻高・赤面の異形に描かれるのが通常だが、実際の姿は人と変わらず、頭巾をかぶり、白衣を着し、足には木沓(きぐつ)を履いている(裸足の愚賓(ぐひん)もいるという)。

・最後に天狗は日本独自のものとの話があるが、それは間違いだということも付記しておこう。中国にも朝鮮にもいるし、西欧にもいる。また、世界各地の天狗が集まって行う山人会議もあるそうだ。

<戦争に出陣する愚賓(下級天狗)たち>
・仕事は、より上級の神界の下命に従って戦争に従軍したり、霊界や人間界をパトロールしたり、冥罰を下したりと、そうとう忙しい。大小の愚賓は、元来が武官だから、戦争になると鬼類などを従えて直ちに出陣する。

・加納郁夫という名の天狗の弟子となった「天狗の初さん」こと外川初次郎は、加納天狗の供をして満州事変に従軍したと言っているし、幕末の戦乱時に活動した才一郎は明治元年から2年にかけての戊辰戦争に冥界から参戦し、三尺坊の命令で、自分の出身国である尾張藩の隊長“千賀八郎”を守護していたと語っている。

<異界交通者が赴く山人界(天狗界)>
<僧侶や仏教信者など、仏教徒深い因縁で結ばれた者が入る「仏仙界」がある。>
<全霊界は「むすび」と「たま」の領界に大別される。>
・むすびの世界とは、「衣食住や山河草木や万般の調度品が、客観的に実在として殆ど人間界のごとく存在する」世界のことで、我々の現界もここに属する。現界もまた霊界の一種、むすびの霊界なのである。

・ 一方、たまの世界は「欲する品物が欲するままに、そこに現出する代わりに注意を怠っていると消えたり、一瞬にして千里を往来したり、もやもやと霊のようなものが友人や知人の顔となり手となって遂に完全な姿として、そこに出てきたり、高い階級で美しい光の乱舞の中に自分も光の雲の如く出没穏見したりする」世界をいう。

<高級神界の世界>
<神集岳神界・万霊神岳神界・紫府宮神界とは>
<全ての地の霊界を統制する大永宮>
・神集岳神界があり、中心は大永宮という巨大な宮城で、一辺が160キロもある高い壁に取り囲まれている。四方に大門があり宮城を四方から囲む数十の宮殿群もある。

・幽政の中府だけに膨大な数の高級官僚が働いている。東洋、西洋、人種はさまざまだが、日本人も沢山、含まれている。

・紫府宮神界は宇宙神界の紫微宮神界ではないので、注意。

・そもそも「天機漏らすべからず」といって神仙界の機密は人間界には伝えないのが決まり。

<現界人の生死・寿命を管掌する神>
・万霊神岳は現界人にとって最も重要な関連をもつ神界とされているのである。大きな島嶼としてまとまっている神集岳とは異なり、この神界は様々な霊界幽区が集まってできた“連邦体”だという。この世界に属する霊界はきわめて広く、いわゆる極楽や地獄も内包しているし、仏仙界も含まれるというから、その巨大さは想像を絶する。

<刑法所も存在する万霊神岳>
・神集岳神界・万霊神岳神界・紫府宮神界が地の霊界では最も高級な神界で、地の霊界全体を監督・支配している。

・刑法所もあり、極刑も執行され、霊魂は消滅させられるというから恐ろしい。

<神仙界の構造>
<神仙が住まう天の霊界と地の霊界>
・世界には目に見える物質的世界(顕界)と目に見えない霊的な世界(幽冥界・幽界)があると説いている。

・極陽に近い部分が天の霊界(天の幽界・天の顕界)、極陰に近い世界が地の霊界(地の幽界・地の顕界)ということになる。

<地の霊界の首都「神集岳神界」>
・神仙道の場合、まずトップに来るのが天の霊界、筆頭の大都(だいと)、「紫微宮(しびきゅう)」で、天地宇宙の根元神の宮であるという。

・この紫微宮の次にくる「大都」は、天照大神の神界である「日界」(太陽神界)で、ここが太陽系全体の首都ということになる。

・神仙道ではこの日界の次にくる大都以下を地球の霊界とし、その首都を「神集岳神界」と呼んでいる。

・神集岳は地の霊界全体を管理運営する神界で、地の霊界の立法府・行政府・司法府の最高官庁が、この都に置かれているという。

・首都・神集岳神界に対する副都を「万霊神岳神界」という。

・神界では、年に1回、現世の人間、霊界に入った人霊および仙人など一切の霊の“人事考課”を行い、寿命も含めた運命の書き換えが行われるという。この作業の中心が万霊神岳だそうなのである。



『折々の民俗学』
常光徹  河出書房新社 2016/7/26



<河童  えんこう祭りと水難除け>
<イメージの変遷>
・川や沼の妖怪といえば、河童だ。その伝承はほぼ全国に分布していて知名度も抜群。室町時代の文安元(1444)年に成立した『下学集』「獺(かわうそ)老いて河童に成る」という記述が初出とされる。江戸時代の中期以降、本草学の隆盛とともに当時の知識人たちのあいだで河童をめぐる関心が高まり、その探求が試みられるようになった。
 正徳二(1712)年の自序をもつ寺島良安の『和漢三才図会』には、川太郎(河童)について、子どもの大きさで頭にくぼみがあり、腕は左右に通り抜け、相撲を好むなどの特徴が記され、猿のような姿の図が載っている。良安は大阪の医者である。『日本山海名物図会』(1754年)には、豊後国(大分県)の河太郎を「猿に以て眼するどし」と説明して、相撲をとる図を添えている。西国では河童の姿を猿のようなイメージでとらえていたようだ。しかし、18世紀後半の江戸では、おかっぱ頭で頭頂部にくぼみがある点などは共通するが、猿に似た姿ではなく、背中に甲羅をもつ姿がイメージされていた。おそらく、スッポンや亀がモデルであろう。

・河童イメージの形成過程には不明な点が多いが、ただ、19世紀に入ると甲羅をもつ河童が勢力を拡大してゆく。おかっぱ頭にくぼみ(皿)があり、とがった口と水掻き、背中に甲羅を負った河童像が江戸の知識人たちのあいだで流通し、さらに、出版物や絵画などを通じて広まり、河童イメージの大きな流れを形づくったのではないかと考えられる。今日、広く浸透している甲羅をもつ河童の姿は、いわば「江戸型」の特徴を具えた河童だといってよいだろう。

<シバテンも人気>
・6月第一土曜日に、南国市の後川筋で行われた「えんこう祭り」を見に行った。組ごとに菖蒲で小屋を作り、エンコウ(猿猴)の好物である胡瓜やお酒などを供えて水難防止を願う。

・えんこう祭りの始まりについては諸説あるが、江戸時代後期の文化年間(1804~18年)には、鏡川の河口辺では提灯を掛けてにぎやかだったようすが記録されている。
 河童の呼称はじつに多い。近世土佐の文献には、猿猴とともに、川太郎・河童・川童子・水虎・河伯などの文字がでてくる。

・そもそも「カッパ」は、東日本を中心に流布していた呼び名だが、「各地の水辺に出没する類似の怪しい生き物」を総称する言葉として広まった。今や全国どこでもカッパ一色である。しかし、呼称の画一化が進行すると、伝承の地域性が平板化し、姿形まで画一的なイメージに染められてゆく。土佐のエンコウを大切にしたい。
 エンコウと並んで高知ではシバテンの人気が高い。小童で相撲を好むところは似ているが、シバテンは、陸上での活動が多い。山中で怪音をたてるとか魚の匂いを嫌うなど、天狗の性格を受け継いでいる。シバテンのシバは小さいという意味であろう。土佐山村(高知市)では、シバテンは旧六月六日の祇園様の日から川へ行きエンコウになると伝えられてきた。津野町でも、夏は川に入ってエンコウになり冬はシバテンになって陸にいるという。似た伝承は九州などにもあり興味深い。

<妖怪博物館を>
・エンコウに限らず、土佐には怪異・妖怪に関する文化が豊かに蓄積されている。実は、だいぶ前から「妖怪博物館」が高知にできないものかと夢見ている。

<恋愛の習俗 ヨバイと女房かたぎ>
<七夕待ち>
・今夜、つまり七月六日の夜は「七夕待ち」と称して、かつては娘たちが若者を招いて飲食し、明け方まで楽しく過ごす風があった。坂本正夫は『土佐の習俗―婚姻と子育て』で、土佐の恋愛習俗について述べている。第2次大戦以前の社会では恋愛の自由はなく、親の言いなりに結婚していたという考え方が支配的だが、一般庶民の実態は必ずしもそのようなものではなかったという。古老の話をもとに、男女の出会いの機会を紹介しているが、その一つに七夕待ちがある。たとえば、明治の末頃まで、安田町東島や北川村野友では「娘たちの家を回り持ちの宿にし、麻を持ち寄って七夕待ちをしていた。この席には若者を招き、七夕さまを祭ってから翌朝までご馳走を食べながらウミアカシ(績み明かし)といって一晩中麻糸をつむいでいたが、眠くなると唄ったり踊ったりして騒いでいた」という。

・幕末の世情を描いた土佐の僧、井上静照が記した「真覚寺日記」の安政二(1855)年七月六日の記録に、宇佐浦(土佐市)の七夕待ちについて「今夜、娘共寄り集まり七夕祭りの通夜する。女子これある小屋は大勢集まり来たり甚だ賑わし。もっとも昨年と違い橋田辺にては色紙の短冊を括りつけし笹ある家なし」と見えている。短冊を用意できなかったのは、前年の安政南海地震の影響であろう。翌年の七月六日にも「夜、七夕の通夜とて若者共集まり歌うて暁に至る。当時北隣にも娘ある家へ数人来り甚だ賑わし」とある。この夜を「七夕の通夜」と言っていたようだが、娘の家に若者たちが集まり、飲み食いをして夜通し過ごしていたようすがわかって興味深ぶかい。盆踊りや地芝居なども男女交際のよい機会であった。

<女房かたぎ>
・最近の調査では聞かなくなったが、以前は、よくヨバイの話を語ってくれる爺さんがいた。ヨバイに関してはさまざまな側面があり、一口で説明するのはむつかしいが、習俗そのものは大正から昭和にかけてほぼなくなったとされる。現在のように自由な恋愛ができなかった時代には、ヨバイは男女交際の場であった。とかく、好色的で淫らな面のみが強調されがちだが、実際には、互いによく知り合った関係で、受け入れるか否かは娘の判断にまかされている場合が多かったという。

・私が出会った明治生まれの古老も、ひと月のあいだ娘のもとに通い、お互い納得のうえでぬけ嫁(結婚)に踏み切ったと語ってくれた。

・ぬけ嫁は、親がむつかしい場合などに、娘と示し合わせて連れだすこと。そのとき、檮原辺では嫁伽といって朋輩(親しい友人)を一人つれて行くのが習いだった。娘は風呂敷包み一つ持って家をでる。あとから、仲人を立てて娘の家に知らせに行く。仲人が「夜前(昨夜)おうちの娘を、こうこうしたところの若い衆が連れて戻ちょるが、これを円満にお貰いしたいと思うが………」といって交渉すると、まずそれでまとまった。反対をしても、最後は親が折れたという。ぬけ嫁は広く「女房かたぎ」といい、かつては方々で行われていた。先の「真覚寺日記」安政二年三月四日の記事に「今日、橋田の女三人汐干に磯辺へ出で行き候うを見付け、其の内の壱人を無理に女房にせんとしてかたぎ損じ大騒動、白昼の女房かたぎ誠に珍し」とある。こうした騒動になるのは、娘の同意のない「無理かたぎ」の場合が多かったようだ。経済的な負担が少ないのも、庶民のあいだで女房かたぎが支持された背景にあるのだろう。

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