沖縄では、仮面・仮装の来訪神は海の彼方の海上にある「ニライ・カナイ」から来ると信じられているが、来訪神は地下の他界から出現すると信じている地域もある。(2)



『来訪神 仮面・仮装の神々』
保坂達雄・福原敏雄・石垣悟   岩田書院   2018/12/1



<無形文化遺産の来訪神行事>
・また、日本における来訪神研究は、1980年代頃までは盛んであったものの、以降、フィールドワークを基にする民俗学・文化人類学の事例研究においては、情報化の進展もあり、行事の新発見はほぼなくなった。

・そして、2018年11月末、ユネスコ無形文化遺産保護条約の「代表一覧表」に「来訪神 仮装・仮面の神々」一件として記載された。本稿ではこれを登録と表記し、広範な来訪神行事のなかでも、10件とそれにかかわる行事に限定して述べる。

・10件は、①甑島(こしきじま)のトシドン(鹿児島県薩摩川内市)、②
男鹿のナマハゲ(秋田県男鹿市)、③能登のアマメハギ(石川県輪島市・能登町)、④宮古島のパーントゥ(沖縄県宮古島市)、⑤遊佐(ゆざ)の小正月行事(山形県遊佐町)、⑥米川の水かぶり(宮城県登米市)、⑦見島のカセドリ(佐賀県佐賀市)、⑧吉浜のスネカ(岩手県大船渡市)、⑨悪石島のボゼ(鹿児島県十島村)、⑩薩摩硫黄島のメンドン(鹿児島県三島村)からなる。

・以上のように、10件は異形の姿で村に現れるヴィジュアル面が強調され、ユネスコ関係者や諸外国に対するアピールになって登録に至った。と同時に現実問題として、来訪神にかかわる民俗信仰自体の決定的な衰退があり、そのための仮面・仮装という外見重視となったともいえよう。
 来訪神にかかわる「民俗信仰」は、高齢者に伝承される古層の神概念や南西諸島における秘儀的民俗行事などを措き、もはや終焉に近い。それらが提案・登録されたのは、伝承の危機に瀕する無形文化遺産を保護するという同遺産の理念に叶ったものといえよう。

<無形文化遺産提案の指標>
・10件は国の主導のもと、代表的・典型的な事例として政府提案され、それが国際機関に認められたのである。従来の民俗関係の登録においてもそうだったが、その影響力は好むと好まざるとにかかわらずかなり大きく、今後「来訪神」の用語やイメージは10件をモデルとして定着するであろう。

・下野敏見は全国的視点より来訪神行事の仮面・仮装に関して、①恐ろしい姿、②奇怪な・不思議な姿、③平常(普段着、晴着)の3種類に分類する。そして、「②は、本来、①であったものが人間に親しみを持って次第に②に変ったと見ることができよう、③は同様な論理で②の変貌と解釈できよう。つまり、装束からみるならば、おとずれ神は、本来、恐ろしい神である」とする。
 すなわち、③は最も新しく派生的に成立したという説であり、後世、社会が世俗的になり、本来の仮面・仮装が面倒になって直(素)面・普段着になった、という解釈である。

<可視/不可視・来訪/常在の神観念>
・その一方、例えば神社神道においては、土地(氏子地)とそこに居住する氏子たちを守る鎮守神・産土神としての常在神の観念がある。不可視の祭神は日常的には和鏡などに依りついて神体として本殿奥に祀られ、祭りの神輿渡御に際して氏子地を巡幸し、御旅所を往復するという神観念である。このような常在観念は神仏習合期に仏教の影響のもと成立し、10世紀以降、平安京において御旅所祭礼が形成され、各地で定着したものと考えられる。

<折口マレビト論――村への来訪から家々への巡訪へ>
・マレビトの故郷である他界、異界は「常世」とされ、もともと常闇の死者の国であったが、後に世をもたらす理想郷に転じた。また、常世は海上にあり、マレビトは海の彼方より箕笠姿で訪れたが、後世、常世を天空や山中に求め、マレビトも山から現れる形になったなどとも説明される。いずれにしても、常世の神こそがマレビトであり、外来神であるとともに、祖霊神であるとも論じられる。

<ホカヒビト――折口の理念モデル/堀の歴史史料>
・折口はマレビト神のみならず、現実に年の折り目などに村を訪れては家々を門付けする漂泊の芸能民や宗教者、さらに乞食をも、マレビトの範疇に捉えてホカヒビトとし、これらは「来訪神としてのマレビト」が後世、変化した姿としている。一見すると、その変化とは神から人へ、芸能者や下級宗教者から乞食や被差別民などへの直線的な「零落の系譜」を示すようにみえる。

<来訪神研究の嚆矢――柳田対折口、再び>
・長谷川は「この論文は、徹底したまれびと論であり、日本の神を祖霊とみる柳田と対立するものであったから、柳田国男も譲れなかったのであろうか」と推測するが、折口は一面ではマレビトを祖霊とも解しているのである。

<「来訪神」という用語>
・近年は一般社会でも人文系学界においても、総称として「来訪神」の使用率が高いものの、未だ日本語として定着しているわけではない。

<来訪神訪問の音と声>
・来訪神役が家々を訪問する際に、トビトビ・トミトミ・トヨトヨ・トロトロなど、来意を告げるとされる畳語の唱え言が発せられる事例がある。行事名や来訪神役名はそれより転用されたものであろう。

<ナマハゲ系の勧農行事――広域分布試論>
・日本の来訪神の代名詞といえば、男鹿の大晦日のナマハゲが思い浮かび、子どもが新年、怠けないように恐ろしさを印象づけて訓戒する行事となっている。同様の行事が東北や北陸の寒冷地方の冬季を中心として広範囲に伝承されるが、これらナマハゲ系行事はなぜ、広範囲に広まったのであろうか。

・いずれにせよ、意味は「なもみ(火斑)を剥ぐ」であり、来訪神役が作り物や本物の刃物で模擬的に剥ごうとする行為「なもみ剥ぎ」が来訪神役名・行事名として各地において転訛されていった。「剥ぐ」もハギのみならず、ハゲ・ヘギ(「へがす」から)などの方言があり、青森県下北半島のナガメ、ヘズリ、岩手県上閉伊郡のナゴミ・タクリ、岩手県の遠野市のヒカタ(火形)・タクリなどがある。

<「来訪神」はどこからやって来るのか>
・「来訪神」はどこからやって来るのだろうか。行事の起源や歴史に関する文献資料が少ないいっぽうで、「来訪神」の出所に関する言い伝えは比較的多くみられる。それらには、行事内容から読み取れるものと、行事の起源に関する伝承の大きく2種がある。ともに「来訪神」の本質の一端を知るうえで重要な手掛かりであろう。
 男鹿のナマハゲは、この種の言い伝えに関しても多くのバリエーションを伝えている。現行の男鹿のナマハゲで、主人と問答するナマハゲの言葉に耳を傾ければ、その出所は2種あることがわかる。お山、すなわち真山・本山とする場合と、八郎潟・太平山とする場合である。地理的には、前者は半島部の集落、後者は半島付根部の集落で語られることが多いという。真山・本山(いずれも男鹿市内)と太平山(秋田市内)は、いずれも秋田県内ではよく知られた修験の霊山である。また、八郎潟は、半島からみて太平山の手前に位置しており、太平山から八郎潟のスガ(水)を渡ってやって来るという、いわば通過ポイントとして語られることが少なくない。つまり、現行の行事内容からみれば、ナマハゲは近隣に実在する(霊)山からやって来るとみなされていることになる。
 いっぽうではナマハゲには行事の起源譚も複数みられる。その主なものをまとめた稲雄次によれば、①真山・本山の修験者が里に降りてきた修験者説、②異邦人(ロシア人、あるいはスペイン人、中国人とも)の船が難破して半島西海岸に流れ着いた異邦人説、③漢の武帝が5匹の鬼を従えて海の彼方から飛来した武帝説、④「お山」の神、すなわち真山・本山の神が降りてきた山の神説、⑤村人が退治したアマノジャクの恨みを鎮めるために始めたアマノジャク説、⑥真山・本山に隠れ住んでしばしば里に降りてきた罪人に対抗して始めた罪人説、の6つがあるという。
 これらの伝承がいつ誰によって語られ始めたのか、あるいは半島のどの集落で語られてきたものかなどについては残念ながらはっきりしない。

・ナマハゲ以外の「来訪神」行事をみても、海説と山説の双方がみられる。宮古島のパーントゥは、海の彼方からやって来ると言い伝えられており、特に島尻のそれでは青年たちがパーントゥに扮する場の古井戸が海の彼方の理想郷・ニライカナイに通じるとされる。先に触れたマユンガナシも海の彼方を出所としていたように、南島の行事では海説を明確にとる事例が多い。八重山諸島などの豊年祭で集落を訪れるミルクもまた、東方の海から五穀の種を携えてやって来る福の神とされている。
 また、福井県福井市蒲生で正月の晩に行われるアッポッシャで登場するアマメンも、海の彼方からやって来た蒙古人(あるいは高麗人)を起源とすると伝える。彼らが子供をさらっていったのが行事の始まりというのである。アマメンは青年が扮し、サッコリ(裂織)と呼ぶ木綿の端切れを仕立てた服を着て、海藻のホンダワラを髪の毛にした巨大な赤鬼のような面をつける。家々を訪れたアマメンは、子供を激しく戒め、最後は家人の差し出した餅をもらって去っていく。

・いっぽう、吉浜のスネカで五葉山と並んで語られる出所、天狗岩(天狗山)に関していえば、修験の影だけでなくトシドン石との類似も注意される。トシドン石は、飯島のトシドンのうちの瀬々野浦のそれで語られるトシドンの出所である。飯島のトシドンでは、例えば青瀬では普段は子供たちを見守り、大晦日に天から降りてくるとされ、瀬々野浦では普段はトシドン石におり、大晦日にそこから首切り馬に乗ってやって来るとされる。トシドン石は、瀬々野浦から片野浦へ向かう山中に現存する巨岩である。容易に近づけないが、かつて岩の傍らには佐兵衛が松という大きな松と、一軒の家があったといわれる。毎年暮れ、その家を大男(トシドンか)が訪れていたが、あるとき男を殺してしまったためその家は絶えた、という異人殺し伝説も付随する。山中の巨岩は、磐座の一種というだけでなく、修験の霊山と同様に実在する近隣の聖地として注意しておきたい。

・そう考えると、薩摩硫黄島のメンドンも島内の矢筈岳からやって来るといわれていること、遊佐のアマハゲのうちの島崎で用いられる仮面に近隣の実在地名があてられることなども、この文脈で解すことができる。つまり、修験の霊山や山中の巨岩など、実在するそれほど遠くない場所が、「来訪神」の逗留する神聖な場としての性格を帯びることも意外に多いことがわかる。このことは、海や天といった遥か彼方とはまた違った異界/他界観念を視野に入れてみる必要性を物語っている。

・こうした「来訪神」の出所を総合してみると、やはり海と山という二つが主にあてられており、特に山については実在性が重要な要素としてあることがわかる。そこで改めて注目してみたいのは、男鹿のナマハゲの起源譚のうちの③武帝説である。この伝承は、武帝と五匹の鬼が海の彼方から男鹿半島の本山に飛来し、その後、毎年正月に武帝から暇をもらった鬼たちが本山から里に降りて荒らしまわった。それがナマハゲの始まりとする説である。そして、このとき鬼と里人の間で石段積みをめぐる勝負があり、一番鶏の鳴き真似をするという里人の機転で鬼は敗れて五社堂に祀られたとされる。また、一番鶏の鳴き真似をしたのはアマノジャクとする異説もあり、⑤アマノジャク説との関連も示唆する。
 武帝が飛来したとされる本山は、真山と並ぶ修験の霊山で、男鹿半島西端に実在する。赤神権現を信仰する修験道場として栄え、麓には真言宗の日積寺水禅院があった。現在も麓には武帝を赤神大明神として祀ったとされる赤神神社、中腹には五匹の鬼を祀ったともいわれる五社堂がある。

<「来訪神」はいつ来るのか>
・「来訪神」の出所と併せて考えなければならないのが、来訪する時期である。「来訪神」行事の行われる時期で最も多いのは、いうまでもなく小正月である。しかもほとんどは晩に行われる。今回提案の10件でも6件までは、小正月前後、つまり新たな年/季節を迎える際の晩に実施されている。

<「来訪神」は、何のためにやって来るのか>
<福をもたらす「来訪神」>
・では祖霊とも目される「来訪神」は、そもそも何のために来訪するのであろうか。私たちは、彼らの訪問に何を期待したのか。今回提案の10件からまずみえてくるのは、「来訪神」は私たちに福をもたらすために訪れるということであろう。いうまでもなく折口の「まれびと」は、ここに力点を置いて導きだされた概念であった。

<通過儀礼としての「来訪神」行事>
・福の授受に注目すれば、福を授かる側にとって「来訪神」行事には、通過儀礼的な意味合いもあったといえる。先に触れた初嫁をめぐる習俗は、その顕著な例である。新たに嫁いできた女性にとって、嫁ぎ先の家や地域社会における自身の立場は極めて不安定である。そうした中で「来訪神」を迎えることは、地域社会の一員になるための通過点として不可欠であった。もっともいえば、「来訪神」が訪問してくるということは地域社会の一員として認められつつあることの確認と証明でもあった。

<災厄を祓う「来訪神」>
<災厄を祓う/鎮め込める「来訪神」>
・「来訪神」が私たちのもとを訪れる目的として、福をもたらすことと裏腹の関係があるのが、災厄を祓うことである。
 秋田県内陸北部、米代川沿いにはニッキと呼ばれる「来訪神」行事がみられる。多くは廃絶してしまっているが、大館市代野のそれは近年復活している。元旦の朝、白い服を着て顔を墨で黒く塗った子供たちが家々を訪れる。玄関先で「ニッキー」と叫んで家人が出てくると、「明けましておめでとうございます」と挨拶し、家人から祝儀や菓子を貰うのである。代野のニッキは、悪い疫病が流行ったときに始まったとされ、ニッキの話は「めっき(滅鬼)」が訛ったものといわれる。ここでは祝いの言葉を述べるいっぽうで、疫病/災厄を祓う「来訪神」の姿を読み取れよう。

<災厄としての火斑>
・ケガレ/災厄を持ち去る「来訪神」という点から改めて注目してみたいのが、東北地方から北陸地方に濃密に伝承される一連の「来訪神」行事である。合同提案の10件でいえば、ナマハゲ・アマハゲ・アマメハギ・スネカの4件がここに入る。これらの他にも、この地域にはナモミ・ナナミタクリ・ナゴミ・ヒガタタクリ・ナゴメハギなどと呼ばれる行事が各地にみられる。これらの行事は、いずれも冬季に囲炉裏等にあたっていると身体にできてしまう火斑、及びその火斑を剥ぎ取る行為を行事名の由来としている。

<火斑/災厄を集める「来訪神」>
・そう考えると、ナマハゲの多くが手にしている包丁や手桶は、単なる恐ろしさを強調する凶器ではないことがわかる。包丁は、火斑/災厄を剥ぎ取る呪具であるし、空の手桶も剥ぎ取った火斑/災厄を入れる呪的器(ほかい)とみるべきだろう。

・災厄を集めるという視点に立つと、薩摩硫黄島のメンドンや宮古島のパーントゥもまた、その機能を有するようにみえる。メンドンは、2日目、島内をまわる太鼓踊りに従いながら、半ば自由にあちこちに出没するが、最後は踊りとともに海辺に行き、鳴物によって災厄を海の彼方に送るタタキダシに参加する。パーントゥも災厄を祓いながら集落の端から端までめぐり歩き、最後に付き従う主婦が身につけたクロツグとセンニンソウを集落の外れで打ち棄てる。メンドンやパーントゥの行動は、島内や集落に出没してめぐり歩くことで災厄を集め、最後にそれを外部の世界に送り出しているともいえよう。

<(追い)祓われる「来訪神」>
・「来訪神」は、私たちに福をもたらすありがたい存在であると同時に、家々から集めた災厄を身にまとった恐ろしい存在でもあった。遊佐のアマハゲで、福をもたらすいっぽうで訪問を拒むと家産が傾くといわれているのも、拒絶が「来訪神」の恨みを買うというよりも、訪問されないと災厄を持ち去ってもらえないためと考えるべきだろう。瀬々野浦のトシドン石をめぐる異人殺し伝説も、災厄を持ち去ってくれる異人/「来訪神」を殺してしまったことが、災厄除去を滞らせて家の盛衰をもたらしたと考えるのが妥当だろう。
 「来訪神」は、災厄を持ち去ってくれるため来訪を拒否できない存在であるいっぽうで、災厄をまとっているため速やかに立ち去ってほしい存在でもあった。長期間の滞在は好まれず、最後は追い祓われるべき存在であったのである。

<贈答/授受の意味>
・このように考えてくると、「来訪神」が訪問先の人々と餅や金銭などをやり取りする行為にも様々な意味合いがあると考えられる。第一に考えられるのは、供物として餅をはじめ祝儀や菓子・果物などを「来訪神」に差し出すことである。男鹿のナマハゲが訪れると、家人は餅を差し出す。輪島市和島崎町や河井町の面様年頭では神道の影響から初穂を捧げるが、輪島市五十州や皆月のアマメハギでも餅を、能都町秋吉のアマメハギでは餅や金銭を差し出す。これらは二匹のナマハゲには二つの餅、三匹のアマメハギには三つの餅が差し出されるように、「来訪神」へ供えられた供物とも解される。

<「鬼」と「来訪神」>
・災厄を持ち去る「来訪神」とは何者なのか。単純に祖霊と同一視してもいいのだろうか。先に触れたように、「来訪神」は、それぞれの地域社会の歴史や自然環境などを背景に多様な姿に可視化/具現化されてきた。そこには担い手の逞しくも豊かな想像力/創造力が発揮されていた。しかし、そのいっぽうで共通の基盤をなすイメージもあった。一つは先に触れた五体満足・二足歩行という「ひと」の姿であった。そしてもう一つは、「鬼」である。

<折口信夫、「まれびと」論の生成と来訪神>
・折口信夫が残した業績は、国文学・芸能史・民俗学・神道学・国語学と幅広い分野に及んでいる。しかしながらそれぞれの分野は多岐にわたって枝分かれしているというより、それぞれが互いに緊密に連絡しあって壮大な学説の体系を創りあげている。

・折口信夫はこの「まれびと」という概念を創出することによって、日本文学と芸能の発生を説明し、その生成と変容の原理を理論的に説明した。

・折口は善神よりも悪神に神の本質を見出し、祟り神をもって神の「第一義と言ふべきであらう」と記す。シャーマニズムから神を捉えようとするこの視点は、「万葉びとの生活の第二部」として執筆されたという小説『神の嫁』へと繋がるところが見えてたいへん興味深い。しかしながら、それでもこうしたシャーマニズム的視点は人間の側に印象を残した神の像でしかなく、「まれびと」としての神への橋渡しできるような神観念とは言いがたい。

<来訪神信仰の女の霊力――柳田國男『海南小記』の刺激――>
・折口信夫が初めて沖縄に渡ったのは大正10年7月。その前年の大正9年から10年にかけて、柳田國男が後に『海南小記』に纏められた旅をする。民俗学による沖縄の発見はここから始まるとするのが通説だが、より広い視野に立つならば、明治後半から大正にかけての時代状況が大きく働きかけていたと言えるのではないか。その点で柳田・折口探訪前史を辿ることも必要であろう。

・柳田の『海南小記』は、折口を沖縄渡航に導いたというだけでなく、探訪する上でも大きな指針となったのではなかったか。一つは来訪神信仰、もう一つは女性の宗教的生活と女の霊力について纏められた記事である。なかでも折口の探訪心を最も強くかき立てたのが、来訪神信仰の存在であった。「遠く来る神」と題した第13節では、遠くから来訪する神に対する琉球の人々の期待と信仰心に関して、第二尚氏王朝を建てた尚円王や琉球建国の始祖となった舜天王を例に挙げ、琉球の伝説には国王やその始祖が遠くから訪れることを語った例が多いと指摘する。これは島の人々のなかに遠くの理想郷から神が訪れてくるのを待望する心が強いことを物語っていると述べ、「此の如きニライ神の遠くの島より寄り来らんことを待って居たのである」と記している。

・沖縄には海の彼方から訪れ来る神の信仰が伝えられ、それが国王の伝説となって語られ、また祭りに具体的に形姿を大きく方向付けたと言ってよい。とりわけ折口信夫の「まれびと」論は柳田の誘発が大きく、独自の学説形成に大きな導きとなったと考えられるのである。
 柳田國男が『海南小記』の旅で発見したもう一つの大きなテーマは、女の霊力の問題である。奄美・沖縄では御嶽の神を祀る女性をノロと呼ぶ。

<表象をもたない神――第一回沖縄探訪――>
・山原船落成の夜中、人が「神道を通ることは出来ぬ」のは、神道を通って神々が来臨してくるという信仰を抱いているからだろう。「海南小記」で読んで興味をもった折口はこうした話を自ら聞いて、神の来臨を語る沖縄の人々の神に寄せる思いを実感したに違いない。地域もまた時代も異なるが、我々もまた奄美の加計呂麻島でアシャゲやトネヤ改築の際の類型的な伝承を聞き取っている。
 今から50年ほど前、神山で鉦が鳴ったのを憶えている。アシャゲの建物を建て替える時、神様は神山から鉦を鳴らしながらアシャゲにやってきた。手に手袋、足も白足袋で包んだ7、8人の神様は、足が地に着かないほど飛んで歩くようであった。アシャゲに着くと神様は尺を持って柱を調べ、気に入らないと柱を尺で叩いた。

・どちらの聞き書きでも、神の来臨するさまを「足が地に着かないほど飛んで歩くようであった」、「地に足を着けないでやって来る」と描写している。後者の聞き書きでは、「神様の仕事が済んだら、鳥の飛ぶよりも早く帰っていった。ガジュマルの木のところまで送って行って、そこからウボツまで、1、2分で帰っていった」とも語っている。「ガジュマルの木」とは、オボツヤマの麓のガジュマルの木のことで、そこはシマ(村落)の外れにある。また「ウボツ」はシマを背後から見下ろしているオボツヤマである。
 ここに紹介した加計呂麻島でも、神は村落背後のオボツヤマから降臨し、神道を通って「地に足を着けないで」シマの中にやってきて、祭祀施設のトネヤやアシャゲの改築・葺き替えを音を鳴らしながら点検し、再び猛スピードでオボツヤマに帰っていった。神は人々の共同幻想のなかに現れるという心意のなかの神というより、建物を点検する「音」を通して確かに認知することが可能な神である。折口は土地の人からの聞き書きを通して、神は「音」をもって訪れる存在であることに気づき始めていたのである。

・次にB「琉球の宗教」を検討する。この論考については、かつて「まれびとの成立――折口信夫と同時代――」や『折口信夫全集』第二巻解説で詳述したように、『古代研究』民俗学篇第一に収録の「琉球の宗教」は、同名論文ながらこのBに大正12年の成果を増補したものなので、注意が必要だ。「楽土」と題された第二部に、「琉球神道で、浄土としてゐるのは、海の彼方の楽土、儀来河内(ギライカナイ)である」、「さうして其儀来河内から神が時を定めて渡って来る、と考えてゐる」と、後の「まれびと」論を髣髴させるような注目すべき叙述がある。そして、そうした神として「にれえ神がなし」、「なるこ神・てるこ神」、「まやの神・いちき神」、また「あまみ神」を挙げる。「なるこ神・てるこ神」は奄美諸島のウムケで海彼のネリヤから迎えられ、2か月後のオーホリでカミニンジョたちによって神送りされる神。「まやの神・いちき神」は『琉球国由来記』巻十六に見え、伊平屋島のタケナイ折り目の祝詞ミセセルのなかに出てくる神で、カナイのキンマモン(君真物)の異名である。「まやの神」は大宜見村喜如嘉で神送りされる神であり、さらに遠くは八重山のシツィ(節祭)に来訪するマユンガナシの別名でもある。「あまみ神」は久米島の神謡クェーナで崇められる神である。



『現代の民話』
あなたも語り手、わたしも語り手
松谷みよ子  中公新書 2000/8/1



<神かくし>
<まさしくあったることとして>
・現代の民話を集めていると、何とも不思議な話に出合う。それも、そのときのその場に居合わせたという人の話には実感があって、「まさしくあったること」なのである。

・今からもう十数年前、青梅線の御岳の稲毛屋という宿へ、よく仕事をかかえていっていた。ある日、宿の女主人の紹介で郷土史家の清水利さんにお目にかかる機会を得た。そのうち思いもかけず神かくしの話になった。

・大正12年の7月の朝、青梅線がまだ私鉄で青梅鉄道といっていた自分だという。土地の男衆が、日向和田駅の西の細い小川で朝草刈りをしていた。と、しくしく泣く声がする。振り向いてみると5、6歳の女の子が泣きながら山から降りてくる。どうしたと聞くと泣きながら何かいう。その言葉が聞きとれない。そこでその女の子をおぶって日向和田駅へ連れていった。駅長はその女の子のなまりや姿から、東北地方の山村の子に違いないと、お手のものの鉄道電話で立川の駅長に事情をはなし、各方面に調査を依頼した。女の子は社宅に連れて帰って奥さんに世話をさせた。
 盛岡から通報が入ったのはその日の夕方で、女の子は岩手の山村の子と判明した。女の子は前の日まで近所の子と遊んでいた。それがふっと姿を消した。「戻せかやせ」と鉦を打ち鳴らしてさがしたが、一夜あけても姿はなく、神かくしかといいあっていたという。
 やれよかったと次の朝、岩手県のなになにのどこの駅でおろしてほしいと、大きな木札にくわしく書きつけ、女の子の首からさげてやった。そして握り飯をたくさん持たせて列車に乗せた。数日経てその女の子の両親から、たどたどしい礼状が日向和田駅の駅長あてに届いていたという。

・何としても不思議なのは前の日、岩手の山村で遊んでいた小さな女の子が、次の朝何故、東京の奥多摩の青梅の山の中に来ていたのか、ということである。大正12年といえば1923年、勿論新幹線もない時代である。村では天狗さんの仕業といったとか。

・もう一つ、どうしても説明がつかない、天狗の神かくしと思われる話を、長野県諏訪で教員をしていた赤沼政美さんから聞いた。昭和13年(1938)のことをいう。
 秋の遠足で塩尻峠へ遠足にいった帰り途、3年生の男の子が1人いないのに気がついた。初めは呼べばすぐ出てくると思っていたのに、いくら大声で呼んでも返事がない。手わけして捜してもいない。青くなって村の人や消防団、警察と八方手を尽くしてさがしても、姿は見えない。日は暮れる。松明をつくって再度山へ出ようとしているところへ、学校から至急便が届いた。なんとその子は、伊那の本通りの遊技場の前にぽかーんとしてうずくまっていたという。塩尻から伊那まで4、50キロ。とてもとても子供の足で4時間足らずで行けるはずもない。一同顔を見合わせた。
 しかしともかく無事であったとようやく胸をなでおろし、早速担任が迎えにいったが、どのようにして伊那まで来たかは本人にもさだかではないようで、ただ、下にあかりがチラチラ見えたとか、風がビュービューふいたと、ぽつりぽつり語るだけであった。いい小梨をみつけておいたので、採って帰ろうと列を離れたという。
 神かくしか天狗にさらわれたのかとか、当時不思議したという。今ならば車も往来しているが、昭和13年のことなのである。

・神かくしは天狗の仕業という話が一番多いが、次の話は、神かくしにあった少年が、まさしく天狗にさらわれたと、はっきりいっている例である。福島県小松市櫛淵町で起こったことで、多田伝三さんから寄せられたものである。
 福島県小松市櫛淵町。大正の頃、T家の次男が神かくしに遭った。部落の全家から1人ずつ出て山野を探索したが、3日たっても発見出来なかった。ところが夜が明けてふと家族が門先の柿の木を仰ぐと、14、5歳のその少年が木の上にいるではないか。皆で梯子でかつぎ下すと放心状態で、聞き直したところ、天狗にさらわれて山野を飛び回ったあげく、この柿の木の小枝に掛けたまま飛び去ったというのである。以来、その少年は魂を奪われたようで学校へ行ってもろくろく口を誰ともきかなかった。そのうちに流行性感冒にかかってぽきと死んでしまった。神かくしにあってから半年足らずで若死にした。

・次の話は狐のしわざといわれた神かくしである。木樵りの幼い女の子が行方不明になり、「かやせかやせ」と探し歩いている声を、新潟に戦時中疎開していた友人の小沢清子さんは聞いている。清子さんが小学1年生のころという。
 木樵りの父と母は狂気のように探しまわり、狐の穴におはぎや赤飯を供えて歩いた。やがて何日か探しつくしたころ、いなくなったあたりの竹藪のそばでその子は眠ったような姿で発見されたが、少しもやつれた様子もなく、愛らしかった。ただ全身にひっかき傷があった。その場所は父母をはじめ町の人が何百回となく探した場所だったという。「子をなくした狐が、さらっていって養っていたんかね」と町の人はいいあった。南蒲原郡見附町という、当時は十分もあれば、町のはしからはしまでいきつくような、小さな町だった。
 
・神かくしにあうと、町内村うち総出で鉦や太鼓を叩き、夜はたいまつをつくって野山をくまなく探したものだという。捜索隊のからだを縄で全員つなぐ、さらし1本に手をかけてはなれぬように探す。一升瓶をたたく、茶碗もたたく。太郎かやせ、子かやせ、山の神様、○○さんを出してたもれ、などよび声もさまざまだったというが、全国にこうした風習があったことは、こうした信じ難いことが起こっていたことを示している。高知の桂井和雄氏の著作のなかに、郷土史家寺石正路の『土佐郷土民族譚』の1章があって、興味深い。
 かかる時は失せ人を捜す方にて、近所隣並はいふまでもなく町内村中惣出を以て、昼は鍾太鼓夜は炬明にて野山残る隅なく捜索す。其の月暗く風寂しき夜半鉦太鼓の音陰に響き、失せ人の名を呼ぶ声幽かに聞ゆる時は物凄き思ありて、婦人小児等は恐れて夜出する能はぬこともあり。

・江戸時代の記録では、讃岐高松藩の目黒下屋敷のお庭番が午後2時頃、天狗に連れられて飛行、その夜の8時に高松の父の許に返されたという。国と江戸との照会文書ではっきりしているという。一笑に附せばそれまでだが、青梅の話を聞いたあとでは、作り事とも思えぬ不思議を感じるのである。

・天狗や、狐、また何ものともしれぬ神かくしを述べたが、神かくしには山に棲む者との婚姻があって、これは柳田国男の『山の人生』に詳らかである。陸中南部の農家の娘が栗拾いに山へ入って戻らず、親は死んだものとあきらめて枕を形代に葬式をした。数年後、村の猟師が五葉山でこの娘と逢った。自分は怖しい山の者にさらわれここに住んでいる。眼の色が恐ろしく背が高く、子供も何人か産んだがみな持ち去られたという。

・同じような話がほかにあって、書物の上では出合っていたのだが、私の家に何年か暮らした山形の及位(のぞき)(最上郡真室川町)の少女から「天狗のかか」になった娘の話を聞いたとき、私の喜びは大きかった。以下その話である。
 大正の末ごろという。新庄鉄砲町のフサヨという娘が山菜採りに入ってふっと姿を消し、行方しれずとなった。神かくしかと騒いだが、消息は知れなかった。ところが昭和4、5年のこと、8月23日から始まる新庄祭りの日、雑踏の中にぼろぼろの着物に蓑をかぶったフサヨがいた。友達の娘が見つけて声をかけると、やはりフサヨで「今、及位の甑山(こしきやま)にいる」といった。天狗のかかあになったという。ひどく若く見えたので聞くと「年に一度、天狗に脇の下から血を吸われる。そのせいだ。けどそれが一番辛い」と言った。
 帰るというので友達の娘たちはあわてて、父ちゃん母ちゃんの所へ行こうと言ったが「だめだ、おれ、天狗にごしゃかれる(叱られる)もの」と言うなり人ごみに紛れていってしまった。

・この話を語ってくれた及位の少女、佐藤愛子さんは、婆んちゃんから寝物語にフサヨの話を聞いたという。娘たちはフサヨを追いかけたが捕まえられず、その後すぐ、フサヨの家の炉端に詰めかけて、フサヨの父と母に語って聞かせた。それから二度とフサヨを見かけた者はない。
 愛ちゃんは、この話をしめくくるとき、みんなで囲炉裏のはたに、こうやって詰めかけてフサヨちゃんの話をしたんだってよ、と言った。


・ではここで、3年ほど前に奄美大島で聞いた神かくしの話を記してみよう。
 いまから15年くらい前の事です。旧の9月、神月のことで、タケさんという、私の遠い身内ですが、実家で夕食の仕度をしていました。子供もいる40過ぎの女性で今そこで食事を作っていたのに、ふっといなくなった。あちこち問い合わせたり探したりしてもいない。「そのうちに帰ってくるだろう」というので、みんな酔っぱらって12時すぎて、翌日になっても帰らないので、こりゃ大変だって、役場に知らせて山狩りをしたんです。
 私の所へも電話が母からあって、「お願いだから神様の所へ行って占いをしてもらって」という。何しろタケさんの家は無信心で、祖先を大切にしないんです。それで母が私に神様の所へいけと。
 そうしたら、「これはもう、あちこち山を歩いているから、戻すには太鼓をずうっと叩いて、太古の音で呼び寄せんといかん」そういって、名瀬の神様が太鼓を叩きつづけてくれたの。2日叩いて3日目になってはじめて、大笠利の旧道のサトウキビ畑へね、ひょろひょろって出てきた。やせて、幽霊のようになって、あちこち傷だらけで血がでていて。
「いつの間にか、気がついたら家を出ていて、真暗ななかを歩いてたけで、ホタルのような光がまわりにあって道が歩けた」っていうの。それで、「太鼓の音がドンドン聞こえてきて、そっちの方向に歩いていけばいいんだなって。だから怖くなかった。ホタルみたいな光がいっぱいだったから」
 あのね、青いホタルみたいな光って、ケンムンのよだれなのね。その光がタケさんを守るように道を照らしてくれて、ユタ神さまの太鼓に守られて3日間。その間、朝露飲んだり、貝食べたり(どうもそれはでんでん虫らしいのですけど)気がついたときは、サトウキビ畑にいて、サトウキビかじってかじって、自分をさがしていた車と出会うわけ、自分の家に戻ったら、太鼓は聞こえなくなったそうです。
 奄美にはいまのケンムン(奄美地方で河童のことをいう)がいて、さまざまな物語を聞くことができる。しかし、いまあげた例は、ケンムンがタケさんを連れていったのではない。3年後、タケさんはまた神かくしになるのだが、今はここでとどめておきたい。

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