魔王尊は暁の明星ルシファーと同一視されたためらしい。天狗は堕天使だったのか? (1)



『妖怪旅日記』
多田克己 /村上健司 /京極夏彦  同朋舎   2001/11/1



『<妖怪愛好会隠れ里、東北合宿を行う――村上健司>』

<妖怪愛好会隠れ里とは?>
・4人乗りのパジェロとレンタカー屋で借りた10人乗りのワゴンの車中では、数人の男女が寝息をたてていた。外で体操をやっていた男たちを含めて総勢11人。その内訳は、妖怪愛好会隠れ里の会員とその友人たち。
 この日は隠れ里の恒例行事、夏期伝説巡り「東北合宿」の初日にあたる。

・そんなこんなで、伝説巡りの第一発目、岩手県は遠野郷に向かったのである。

<まずは『『遠野物語』』の舞台を訪ねて>
・いうまでもなく、遠野は妖怪や伝説愛好家にとってはよく知られた場所。民俗学者・柳田國男が明治43年に『遠野物語』を世に出してから、民話と伝説の里として一躍有名になったのである。
 朝8時。南部曲がり家で有名な千葉家屋敷を見学した後、近くの山中にある続き石に到着。
「これ、ドルメンだよ。えー、なんでこんな所にあるの」

・2つの立石の上に、幅7メートル、横が5メートルほどもある石がドーンと乗ったもの、それが続き石だ。

・伝説地としては、姥捨て伝説の残るデンデラ野、どこかへ移動しても必ず戻ってくるというさすらい地蔵、農家の娘が行方不明になり、あるとき山姥として戻ってきたという寒戸の婆(『遠野物語』では寒戸の婆になっているが、遠野には寒戸という地名はない。正しくは登戸の婆である)ゆかりの地などを見てまわった。

<妖怪愛好家は恥ずかしい ⁉>
・さて、河童淵である。
 猿ヶ石川の支流に土淵町を流れる足洗川という川がある。小さいながらも流れが急で、とてもいい雰囲気の清流だ。
 案内板に従って歩いて行くと、やがて緑に覆われた河童淵が見えてきた。
 その昔、某家の子供が馬を冷やすために川へ行き、そのまま馬を置いてどこかへ遊びにいってしまった。そこへ河童が現れ、馬を淵に引きずり込もうとしたが、逆に馬に引きずられ、厩まで連れて行かれた。河童は飼葉桶を伏せた中に隠れていたが、家の者に見つかってしまい、集まった村人たちの相談の結果、二度と村の馬に悪戯をしないという約束で許してもらった。以来、河童は村を去って相沢の滝の淵に移り住んだという――。
『遠野物語』の58話にあるものだ。

・このような河童の話は遠野にはいくつも伝わっていて、河童の存在を信じている古老も少なくない。

・おズさんは自宅裏の河童淵に観光客が来ると、必ずといっていいほど声をかけに現れる。本名は阿部与市さん。八幡太郎義家に滅ぼされた安倍貞任の末裔で、28代目の当主なのだという。遠野では有名な人物である。

・おズさんに別れを告げて、宿へと向かう。今日の予定はここまでだ。
 宿は南部曲がり家をそのままに生かした民宿。なんでも座敷ワラシが住み着いているとのことだった。元気があれば宿の人に話を聞くところだが、電池切れの僕たちはそこまで考えが及ばず、食事を済ませるとすぐに気絶した。

・一行は、ストーンサークルの名で知られる秋田県男鹿市大湯の環状列石や、古代ピラミッドではないかと噂される黒又山などを見学。十和田湖や奥入瀬渓谷では、まったくの観光客になっていた。
 と、ここで思いのほか時間を食ってしまった。急いでキリストの墓のある青森県二戸郡新郷村戸来へと向かわなければ、写真が撮れなくなってしまう。

・何を撮影しているのかといえば、黒又山と同じようにピラミッドではないかといわれている十和利山。

※)ゴルゴダの丘で十字架に磔になったのはキリストの身代わりで、本人は日本の戸来村を訪れて一生をまっとうしたというとんでもな伝説。

<座敷ワラシに会いたい!>
・そんなことがありつつ、なんとか日没までにキリストの墓を見学し、日もとっぷりと暮れたころ、やっと宿に着いた。本日の伝説巡りは無事終了――といきたいところだが、そうはいかない。僕たちの宿泊地である金田一温泉・緑風荘は、今回の合宿のメインなのである。

・金田一温泉は岩手県二戸市にあるひなびた温泉地だ。馬渕川の流れ、果樹園、のどかな田園風景と、実に静かな場所である。そんな田舎の保養地に、なぜ僕たちが喜んで来たのかというと、当然妖怪がらみなのだった。
 座敷ワラシに会える宿――それが緑風荘。奥座敷にあたる《えんじゅの間》は、数ある客室の中でもここにしか座敷ワラシは現れないという部屋なのだ。
「……遠野を回ってきたんですか。ウチの座敷ワラシはですね、遠野あたりでいう座敷ワラシとは少し違うのですよ」
 そう話すのは、宿の御主人・五日市さん。白髪まじりの頭髪を後ろで束ね、作務衣を着こなした姿がなかなかお洒落である。
 なんでも、ここの座敷ワラシは素性がはっきりしているのだという。
 藤原朝臣亀麻呂――これが座敷ワラシの名前である。
 鎌倉末期から南北朝時代にかけて、藤原(万里小路)藤房という公卿がいた。後醍醐天皇に近侍し、討幕計画では主要な役割を果たした人物だが、時代の波に翻弄され、出家した後に失踪したといわれている。
 宿の御主人・五日市氏、この藤原藤房の子孫にあたるという。正史では失踪後のことは不明とされているが、五日市家に伝わる話によれば、藤房の一族は今の東京都西多摩郡五日市町に移り住んだことになっている。五日市という家名の由来は、身分を隠すために名乗ったのがはじまりだそうだ。後に一族の子孫は現在の金田一に移住したが、その一族の一人が亀麿呂なのである。
 亀麿呂は6、7歳という幼さでこの金田一で夭折した。以来、一族に危機が迫ると助けてくれる守護神となったそうである。

<県名の由来の大石に感動する>
・その昔、岩手山が大噴火を起こしたとき、三つに分かれた巨大な石が飛んできた。里人たちはこの石に神秘的なものを感じ、いつしか三ツ石の神として崇めるようになっていた。そのころ、この地方には羅刹鬼(らせつき)という鬼がいて、悪事をくり返していた。里人たちが三ツ石の神に助けを求めると、その願いはたちまち聞き届けられ、三ツ石の神はたちどころに羅刹鬼を捕まえた。三ツ石に縛りつけられた羅刹鬼は大いに恐れて、泣きながら許してほしいといった。そこで三ツ石の神は、二度とこの土地で悪さをしないと約束させて、石に手形を押させることにした。解き放たれた羅刹鬼は、風のような速さで逃げて行き、二度とこの土地には現れなかった。以来、この土地を岩手の里とよぶようになったという。
「あっ、ホントだ。ちゃんと手形がある」
「えー? どれどれ」
「手の部分だけコケの色が違うんだよ。ほらココ」
 岩の手形を前に、ああだこうだと騒ぎまくるメンバー。よく見ないとわからないが、手形は苔むした石の表面にあった。大きさは大人の手の2倍くらいで、右と左の2つの手形が確認できる。しかも5本の指もちゃんと揃っていた。

・その後、同じ町内にある報恩寺でマルコ・ポーロとフビライの像といわれている五百羅漢像を見学。さてこれから昼食だ……と思ったのだが、時間はすでに午後2時を過ぎていた。この後、悪路王という鬼が根城にしていたという達谷の窟に寄る予定があり、さらに夕方までには今日の宿である福島県の岳温泉に行かなくてはならないのである。

・「悪路王って、アテルイのことなんでしょ?」
・――8世紀のはじめより東北開拓を進めてきた朝廷は、抵抗を続ける先住民・蝦夷をことごとく征していった。やがて8世紀末、蝦夷の族長・悪路王は達谷の窟を根城に抵抗を続けていたが、延暦20年(801)、征夷大将軍・坂上田村麻呂によって征伐された。田村麻呂は、蝦夷を平定できたのは多聞天の加護によるものと、達谷の窟に多聞天像を安置し、毘沙門堂と名づけたという――。
 達谷の窟毘沙門堂が発行するパンフにある説明である。この話を見ても、正史に残る蝦夷の族長・アテルイと坂上田村麻呂との戦いについてのことだとわかる。結局、朝廷にまつろわぬ民は、みんな妖怪扱いされたのだ。葛城の土蜘蛛、飛騨の両面宿儺、武尊の悪勢(おぜ)などと同じように、アテルイも悪路王という鬼にされたのだろう。

<センセイ、殺生石を征する……>
・23日。合宿最終日である。天気は快晴。
 本日の一発目である観世寺は、安達ヶ原の鬼婆ゆかりの地である。宿から1時間もかからない。「鬼婆が埋まってるって、ホントなのかな」
「さぁ……。あくまでも伝説だしねぇ」

・観世寺境内には鬼婆が住んでいたという岩屋や、鬼婆が使っていたという包丁などを展示した資料館があり、それなりに楽しめた。しかし、テープによる鬼婆の解説が延々と境内に響いていたのには興醒めしてしまった。
 さらに、すぐ近くに郷土をテーマとした観光施設があり、ロボットが演じる謡曲『黒塚』が見られるとのことだったが、あまりの料金の高さと内容のなさにパスした。安達ヶ原はすっかり観光地なのである。
 一応、合宿で巡る伝説地はこれで終了。しかし、隠れ里の合宿にしては珍しく時間に余裕があったので、そのまま東北道を南下して、栃木県の那須高原に寄ることにした。もちろん、九尾の狐が化したという殺生石を見るためだ。
 サービスエリアで九尾の狐釜飯を食べた後、車は那須湯本の温泉街を抜けて、温泉神社前の駐車場に到着。ここからは遊歩道を歩くことになる。
 だらだらと歩いてゆくと、岩がごろごろ転がる山の斜面に殺生石が見えてきた。

『<妖怪三馬鹿、京の牛祭りを見学する――村上健司>』
<妖怪三馬鹿、京都に現れる>
・平成10年10月10日、午後5時すぎ。
 夕闇に包まれはじめた京都太秦……。
 妖怪三馬鹿である京極、多田、村上は広隆寺の境内にいた。
 いや、三馬鹿というよりは二馬鹿……つまり、京極さんと多田センセイが――といった方がこの際は正しいのかもしれない。なぜかといえば、僕はただ、祭りに登場する魔多羅神という一種妖怪じみた異形の神を見たいというだけで、二人についてきただけだからだ。
 この日、広隆寺では牛祭りという変わった祭りが行われる。なんでも京都の三大奇祭の一つに数えられるとかで、残りは天狗の山で知られる鞍馬山の火祭りと、京都市北区にある今宮神社のやすらい祭りがあげられるそうである。
 いずれも見学したことはないけれども、奇祭といわれるからには、どれも変わった祭りなのだろう。牛祭りはそのなかでも謎が多い祭りとされていて、とくに魔多羅神という異形の神が登場することでよく知られている。

<牛祭りの夜に駆け抜ける猪を見た!>
・――ここで牛祭りのことを簡単に説明しておこう。
牛祭りには厄除けの意味があるそうで、災害や病魔を除き、天下泰平と五穀豊穣を祈願するものといわれている。その由来の詳細はよくわかっていないが、広隆寺が発行する案内書にはこう記されている。
 恵心僧都(平安時代中期の天台宗の僧。地獄極楽を詳細に記した『往生要集』の著者でもある)が夢の御告げで広隆寺の絵堂に詣で、そこで見た極楽浄土の様子に感動して阿弥陀三尊の像を彫刻した。そしてその年の9月11日から3日間にわたって念仏を唱え、念仏守護として魔多羅神を勧請し、祭礼時に読まれる祭文を自ら奏した――
 これが牛祭りのはじまりだといわれている。しかし、この話からだけでは牛祭りという名前の由来もわからないし、魔多羅神という神の性格についてもまったくわからない。逆にいえば、わからないことだらけの祭りだからこそ、奇祭とよばれているのだろうが……。

・祭りの進行はいたって簡単。
 主役である牛と、魔多羅神役の神人、4人の四天王役の神人が広隆寺の客殿の前で僧の祈祷を受ける。その後、魔多羅神は牛に乗り、境内の西門から多くの住者をともなって行列をなし、正門前を通って東門から再び境内に入る。境内の薬師堂前には祭壇が設けられ、魔多羅神はそこで長々と祭文を読む。読み終えた途端、魔多羅神と四天王は逃げるように薬師堂の中に入ってしまい、そこで祭りは終了となる。
 はじめから終わりまでの所要時間は大体2時間。じつにあっけなく終わってしまうのだ。こうした変わった内容も奇祭とよばれる理由の一つになっているのだろう。

・高々と掲げられたいくつもの提灯が人垣の頭上に見えはじめ、目の前を正装した従者たちが通り過ぎて行く。オレンジ色の緑色の鬼のような面を被った二人の四天王の後に、小柄な和牛に乗った魔多羅神の姿が見えた。
 真っ白で無表情な顔――、紙のお面をかぶっているだけなので、無表情なのは当たり前なのだが、松明に照らされた魔多羅神はなんとも不気味。どこかで見たような顔だなと思っていたら、それはムロタニツネ象という往年の漫画家が手掛けた怪奇漫画『地獄くん』の主人公そのものだった………。

(※)ムロタニツネ象の代表作。地獄の閻魔大王の息子だという少年が主人公で、ピストルで頭を打ち抜かれても平然としている。無表情な顔。強調された唇。桃割れの髪型。大きく広い額に、前髪がチョロっとカールしている様が、魔多羅神の仮面にそっくり。

<祭りの静寂を破る奇声の正体は?>
・そんな静寂を破るように、人込みの中から聞き覚えのある声が――。
「そうかっ、ミトラだっ‼」
 状況を考えずにそんな馬鹿声を出すのはセンセイに決まってる。どうせまたいつもの発見騒ぎが出たのだろう。
 妖怪に限らず、センセイは自分の研究対象の謎が解けたときは、目をカッと見開いて大騒ぎする。読書中でも、人と会話をしているときでも、まわりに他人がいようといまいと、まったく関係なく喜びを声と体で表現するのだ。上半身だけピョコンと跳ねるようにして、「発見しちゃった‼」と言うのが常である。

(※)古代アーリアの神。ペルシャ(古代イラン)のゾロアスター教では太陽神、または契約と正義の神として信仰された。牡牛の守護者であり、かつ聖牛を屠って、信者に聖体拝領して魂を救済するという。救世主マイトレーヤ(弥勒菩薩)の前身。

<「ねぇ、すごい発見しちゃった」>
・「ねぇ、すごい発見しちゃったよ。魔多羅神はミトラなんだよ。ミトラは古代イランの契約の神で牛を屠る神なんだよ。四天王はミトラ神の4つの能力の顕現で……」
 いつまでも続きそうな勢いでしゃべるセンセイをよそに、京極さんは難しそうな表情をしている。
「あの祭文は恵心僧都が魔多羅神に対して奏したものですよね。それを魔多羅神自身が読むっていうのは、おかしいじゃないですか………。牛祭りは明治時代で一時中止してたっていうけど、以前のことを調べてみないと」
 なるほど、二人とものほほんと祭り見物をしていたわけではないのだ。それは当然だろう。思うところがあってこそ、わざわざ見学しに来たのである。何も考えずにバシャバシャ写真を撮ってただけの僕とは大違いだ。
「………だからさ、密教はそうした古代イランやインドの宗教の影響を受けているわけ。ねぇ、聞いてよ……」

(※)弥勒の前身ミトラは牛を殺す神であった。弥勒信仰を日本に定着させた聖徳太子の死後、仏教によって日本では鳥獣の殺生は禁止となった。そこで弥勒菩薩を本尊とする広隆寺では、牛を殺害して衆生を救済するという古い行事を、「牛祭り」という形に変えたのではないかと直感したのである。しかも「ミトラ」と「マタラ」は五音相違するではないか。

『雍昭最悪コンビ、四国・九州を巡る――多田克己』
<妖怪最悪コンビ、大仕事を受ける>
・四国八十八ヵ所の12番札所になっている根香寺では、山田蔵人高清が退治したとされる牛鬼という妖怪の角が宝物となっている。寺の門前には背丈が4メートルぐらいはありそうな牛鬼像が立っているが、その像形はまるでウルトラマンに登場してもおかしくない怪獣そのものである。

・徳島県に入り、小松市の金長狸の祠へ参詣。金長は六右衛門狸と大戦争(阿波狸合戦)を起こしたと言われる超有名な狸。白峰山旧登山口には、映画会社が寄進したという金長狐の本宮があった。一方、徳島市津田西町の穴観音では、かつて金長狸と争って戦死したという六右衛門大明神(六右衛門狸)を祀っている。六右衛門は阿波国(徳島県)の狸の総大将で、
彼の眷属といわれる狸たちの祠も、徳島市を中心として徳島県中に点在する。
 化け狸が大好きな村上は、この日は少々興奮気味で、夕暮れになるまで、徳島市内に40ヵ所以上はあるという狸の祠を探し回った。狸には八徳あるとされるが、金長狸に参詣した後に敵方の六右衛門大明神にも祈願したためか、村上氏はその夜もパチンコで5万円以上も負けてしまったのだ。
 4日目、朝から徳島市の天気はいい。今日も市内で狸の祠を見て回る。祀られている狸はオスとメスがちょうど半々ずつ。市外(大麻町大谷)の赤殿中は、袖のない赤いチャンチャンコを着た子供に化けた狸で、道行く人に「おんぶしてくれ」とせがんだと言われ、その祠がある。
 私のわがままで田村神社(讃岐一之宮)に続き、大麻比古神社(阿波国一之宮)、八倉比売神社(同一之宮)に寄せてもらう。美馬郡脇町高須で衝立狸(夜道で衝立に化けて通行の邪魔をした)を封じた。

・5日目も天気は上々。松山市役所前の八股榎お袖大明神は、美女に化けて町に出ては冷酒を五合も飲んでいたという化け狐。松山城は隠神刑部狸(八百八狸)に乗っ取られそうになった松山藩城。松山市久谷中組の山口霊神祠は、英傑の稲生武太夫によって、八百八匹の子分もろとも隠神刑部が封じられたと言われる洞窟の入口だという。

<狸王国から河童王国へと渡る>
・北九州市の天疫神社には教経(平清盛の甥)の妻であった海御前の墓がある。平家一門が源氏との壇ノ浦の海戦の末に、一族とともに入水して死んだが、その遺体は天疫神社近くの大積の海岸に流れつき、里人によって墓に葬られたという。壇ノ浦で死んだ平家の男たちの怨霊は、背中に恨めしそうな顔を持つ平家蟹となり、女たちは河童になったといい、海御前はその河童たちの総帥になったとされる。

・中津市の自性寺と円応寺で、河童の詫び証文、河童の墓などの河童づくしを見せてもらう。

・その日のメインディッシュは、浮羽郡田主丸町の河童づくし。
 JR田主丸駅からして河童の顔の形をしているし、電話ボックスも河童という具合の田主丸町や東に続く古井町は築後の河童の本場である。午後12時ごろの約束で田主丸の河童を研究していて詳しい藤田正登氏と会い、お話を聞く。

・1時間ほど濃い河童研究の話を聞かせていただいた後、田主丸町の各地で祀られている河童像を案内して見せてもらう。田主丸町の月読神社(三夜様)の境内には、罔象女尊(みずはめのみこと)という水神を祀る祠があるが、土地の人はババセドン(馬場瀬殿)と呼んで筑後河童の大元締めであるという。
 祠の中には、唐冠を着けて右手に剣を左手に宝珠を持った脇武士の木像が四体いる。一人は頭に皿のある九千匹の子分を持つ河童の頭目の九千坊。一人は孫悟空の弟分という沙悟浄。安徳天皇と思われる子供を抱いているのは二位尼時子。目がギョロリとした坊主頭の像はカワントンという。鹿島の祠に祀られている。巨勢入道は平清盛の怨霊といわれ、年に一度だけ妻の二位尼に会うために田主丸を訪れるが、その日は筑後川が洪水になるという。

<様々な河童と出会い、祟りの木に震える>
・8日目は朝から大変良い天気である。武雄市潮見へ行き、茶畑の中にカワッソの誓文石を探す。カワッソとは川獺の訛りで、河童の異名である。

・お昼には伊万里焼き(陶磁器)で有名な伊万里市に行き、ある酒造店で河童のミイラを見せていただく。背中には甲羅らしきものはなかったが、その姿形は人間でも猿でも亀でも、その他いかなる獣とも比べることができない、独特の形をしているミイラだった。ときどきテレビ局の取材もあることから、この河童のミイラは有名である。

・10日目は、朝からあいにくの雨降り。八代市内を流れる前川の前川橋のたもとには、河童渡来の碑なるものがあり、そこには「オレ・オレ・デーライタ(呉人呉人的来多)」なる意味不明の呪文が書かれている。地元のある研究家がこれは中国語で「呉(中国江蘇省の別名)からやって来た」という意で、河童とは二千年以上前に中国の呉から訪れた渡来人だと解釈しているが、戸来碑の文章は近年のものらしいから、そんなことはちょっとありえないようだ。

<妖怪最悪コンビ、人魚の骨に感動す>
・15日目の朝は再び雨が降り出す悪天候であったが、昼近くになるとやむ。博多区冷泉町の竜宮寺で人魚の墓を見せてもらう。さらに寺の住職に、人魚の骨とその姿を描いた掛け軸を見せてもらう。

『妖怪最悪コンビ、隠岐へ渡る――村上健司』
<まずは隠岐の河童神を訪ねる>
・午前11時過ぎ。隠岐地方でもっとも栄えた西郷町に到着。予約していたレンタカーに乗車し、まずは隠岐伝説巡り一発目である河童神を訪ねることにした。
 隠岐には河童の伝承が多い。ここ西郷町にも、いくつもの河童の話が伝わっている。そのなかでも最もよく知られているのが唐人屋の河童神の話である。
 延宝年間(1673~81)のこと。八尾川のほとり、今の西郷町西町に唐人屋という屋号の家があり、三代目九兵衛という男が住んでいた。毎年、夏になるときまってキュウリ泥棒が現れるので、今年こそはと畑で待ち構えていると、その犯人は八尾川に棲む河童だとわかった。九兵衛が刀でその腕を斬り落とすと、不意をつかれた河童はそのまま、あたふたと川に逃げ込んでいった。
 九兵衛は河童の腕を持ち帰ると、手ごろな箱の中に入れて押し入れの奥にしまった。その夜から腕を返してくれと九兵衛の家に河童が現れるようになった。最初はいい気味だと思っていたものの、だんだんと可哀想になった九兵衛は、7日目の夜になって手を返すことにした。
 そのとき、河童に「爾今、唐人屋様所有の田畑一切荒らし申さざるはもとより、子々孫々永久に危害を加えまじきことを固く誓約す」という詫び証文を書かせた。
 次の日より、許してもらったお礼のつもりか、九兵衛の家の門口に川魚が下げられていた。最初のうちは有り難く食べていたが、あるとき九兵衛は「このごろは寺参りをするのに、朝から生臭物を門口に吊るすとは不届きな奴だ。明日からはもういらない」といって河童と縁を切ってしまった。
 しかし、「河童は昔から福を授けるというから、一切縁を切ることもなかろう」と思い直し、自宅と八尾川の対岸に河童を祀る祠を設けた。これが今に伝わる福河童大明神の由来なのである。
 唐人屋の屋号と九兵衛の子孫は健在で、現在は松岡姓を名乗っている。伝説資料には河童の手を斬った刀が残されているということなので、お話を伺おうと家を訪ねたのだが、あいにく留守の様子。

<妖怪最悪コンビ、山中強行にバテる>
・9月29日。午前8時。雨が降ったり止んだりの不安定な天気。
「エ? 七尋(ななひろ)女房の岩を見に行くんですか? どうやって?」
朝飯を食っていたとき、宿の女将さんがあきれながら言った。

・僕たちはさっそく車に乗り込むと、とりあえず雑貨店で軍手と合羽を購入し、伝説巡りを開始した。
 センセイが行きたがっていた隠岐神社を見学した後、いよいよ隠岐編のメイン七尋女房の女房ヶ岩との対面である。
 七尋女房は鳥取県の一部にも伝わっており、首が七尋にも伸びる怪女ともいわれるが、ここ海士町での七尋女房はものすごく大きな女という意味のようだ。ちなみに一尋は1.8メートル。


『京極夏彦氏と魔界京都を行く――多田克己』
<金星から来た天狗 ⁉ 鞍馬山を登る>
・魔王とは鞍馬寺の本尊である毘沙門の夜の化身だとされ、天狗の首領だという魔王大僧正のことである。そこにある立て看板によれば魔王大僧正は名前をサナート・クラマといい、今から六百数十万年前に、金星より地球へ飛来したとある。
 「えっ! 鞍馬の天狗は金星人だって?」と驚くS。看板にはさらに大宇宙の尊霊から指命を受けて、救済のため地球人類を導くために来た、というような意味も書かれている。「魔王尊はウルトラマンかい」と村上氏。怪しい、怪しすぎる。
 じつは、このように書かれるようになったのは、戦後に天台宗から独立して新宗教となった鞍馬寺が、イギリスの神智学系の教団と友好が深かったためで、いわば西洋オカルトの解釈で、魔王尊は暁の明星ルシファーと同一視されたためらしい。天狗は堕天使だったのか? 日本の妖怪もこんなところからグローバル化をはじめているようだ。
 魔王殿からどんどん山を下ってゆくと、貴船神社の参道へと到着する。ここは京都の加茂川の水源地にあたり、神社は祈雨・止雨の神として古来より信仰されてきた。「貴船の神は祟り神なんだよ」と京極氏。いくつかの古典に、貴船明神が咳病を流行させて死なせたようなことが書かれている。
 神社に参拝すると、さらに北へ歩いて奥貴船へと進む。



『水木しげる』  妖怪・戦争・そして、人間
河出書房新社  2016/5/26



<妖怪談義――あるいは他界への眼差し(水木しげる 小松和彦>
<妖怪と生活空間>
・(小松)それらはみな、各々の村々で作られてきた妖怪なわけですからね。全国どこでも通用する妖怪というのは、なかなかないわけですよ。河童の場合は、民俗学者がその名前をよく使ったし、江戸時代の知識人などもずいぶん使ったおかげで、地方的な固有の名前のほうは次第に人々に忘れられ、河童という名前のほうが、残ったということでしょうね。
(水木)それと、日本人は河童好きだったと思いますね。それほど河童の話というのは、上手に作られています。中国などでは、そんなに河童は発達していないんですけど。
(小松)なぜ、日本人は河童が好きなんでしょうかね。
(水木)大変ユーモラスなものに仕立てられていますよね。きゅうりが好きだとか茄子が好きだとか、相撲が好きだとかね。
(小松)それに、河童の各々の属性の中に、日本人が日常生活の中で考えている事柄が、非常にたくさん盛り込まれていると思うんですよ。それがやはり人々を魅きつけたんじゃないでしょうかね。河童は近世になって作られた妖怪なわけですけど…………。

<神々と妖怪>
(小松)ところで、日本の民俗社会、歴史社会においては、妖怪の世界と神々の世界とが、対比的に扱われていますね。水木さんが、神ではなく妖怪の世界のほうに魅かれていったのは、どういうことからなんですか。
(水木)私は、神と違って、妖怪の方は自分で感じることができたわけですよ。「真を求め、そのために詩を失う」という言葉がありますが、私はどちらかというと真よりも詩を好むのです。そして20歳ぐらいの時に、柳田國男の『妖怪談義』を読んで、「妖怪名彙」の所に出てくるいろいろな妖怪の名前を見て、アッと思ったんですね。もう非常によく分かったんです。それから鳥山石燕ですね。この二つで非常に自信を得たわけです。

・私の場合、仕事でも何でも、妖怪となると元気が出てきて、もう一生懸命になってしまうんです。従って、資料のほうも妖怪ばかりがやけに増えちゃうわけです。

<<あの世>の世界>
(水木)昔は、お寺なんかに行くと、よく地獄・極楽の絵がありましたね。そのせいか、鬼がいるという印象が強いんです。それと、日本では、お盆の行事などに、やはり“あの世”との関連を感じますね。いろいろなものを船に積んで流すわけですけど、それがどこに行くかというと、十万億土とかいわれるわけでしょう。子供心によく分からないながらも、あの海の先にもう一つの世界があるんだな、と思ったわけです。それからまた、祖先の霊がくるというんで、迎え火とか送り火とかをやりますね。そうすると、我々の目にはみえないけれど、ちゃんときているんだなと思うわけですよ。僕自身は、“あの世”と妖怪との直接の関わりというものを、あまり感じたことはないですけど、日本以外では、あの世から飛来してきた妖怪というのは、結構いるようです。そういう意味では“あの世”に対しては、非常に興味はもっています。

<美とグロテスク>
(小松)昔の人たちは、自然の中に神を見、その自然の一部として人間を見ていたわけですから、人間だって同じような霊をもっていると考えていた。自然も人間も神も、いわば同じ一つの土台の上に乗っていたのですが、それが近代になると、人間だけがその土台から降りてしまったわけです。そして、人間は特別な生き物であるという特権を与えられてしまったわけです。

<「妖怪の棲めない国はダメになる」水木しげる ロング・インタヴュー>
<人間が妖怪をいじめている>
・日本で妖怪が減ったのは、電気のせいです。電気で世の中が明るくなってしまった。妖怪というのは、やっぱり闇夜が必要なんです。

<闇夜が育む妖怪たち>
・水木を運んだのは、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った老船「信濃丸」で、彼ら以降、ラバウルに着いた船は一隻もない。すべて撃沈されたため、水木らは永遠に新兵扱いのまま、攻撃の最前線へと送られた。まさに、「死」が必然であった。

・水木サンは生まれた時から、妖怪が好きだった。だから、戦争でニューギニアのほうへ行っても、現地の人たちと妖怪の話を自然にすることができた。

・約3分の2が敵の領土というニューブリテン島で、水木は最も敵に近いココボの陸軍基地に送られた。水木はここでもマイペースを貫いたため、“ビンタの王様”のあだ名がつくほど上官から殴られた。そして、さらに危険な最前線基地トーマからズンゲン、バイエンへと派遣され、バイエンでは到着早々海岸の警備を命じられた。不審番もいつもは上等兵が一番楽な早朝の監視をやり、水木たちは夜中に番をさせられる。ところがその日に限って、上等兵が交代してくれというので、早朝の番に変わった。それが運命の分かれ道だった。

・左腕を負傷し、生命が危ないからと二の腕から麻酔なしで切り取られたのです。でも、そのおかげで傷病兵を集めるナマレという後方の野戦病院に移送されることになりました。
 その時感じたのは、人間が持つ「運命」です。

・トライ族の住民が用いる貨幣は、カナカマネーと呼ばれる貝殻でした。これを丸い大きな輪にし、二つか三つ持てばお金持ち。その貝殻でタバコの葉やパパイヤと交換するんです。

・彼らはあまり働きません。皆、慢性のマラリアにかかっているので、疲れないようにしなければいけない。働き者だとすぐ死んでしまいます。怠け者でないと、生きていけないのです。
 私も慢性のマラリアということで、しょっちゅう身体がだるいとか何とか屁理屈を言って、半年か1年しか軍隊で仕事をしませんでした(笑)。その間、彼らの集落に入り浸っているわけです。そうやって現地の人たちと交流して、バナナなどをたくさん食べていましたから、栄養がついて元気だった。逆に軍隊で真面目に働いていた兵隊は、終戦になってから帰国するまでにバタバタ死にました。水木サンは日本に帰るという時に、向こうの生活が合っているから、そのまま現地除隊させてくれと言った。でも、「日本に帰ってお父さんとお母さんに顔を見せてからにしたらどうだ」と上官に言われ、それもそうだと思って帰国しました。


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