我邦、古より天狗と称する者多し、皆霊鬼の中、其の較著なるものが天狗であり、狐・童・僧侶・山伏・鬼神・仏菩薩などの姿で出現する。(2)


<予言する妖怪  流行病と姫魚>
<魔物の通り道>
・以前、民俗調査で岩手県法寺町(二戸市)を歩いたとき、アクドポッポリの話をたびたび耳にした。夕方、墓場の前などを通っているとアクド(踵)にポッコリ、ポッコリとりついてくる妖怪だ。ただ、姿形はわからない。

・ミサキノカゼは、人間が出遭うと病気になるとされるイキアイガミ(行き合い神)のことであろう。渡辺裕二さんは「四国の民俗 聞書きーイキアイモンの話」で、愛媛県西条市の古老の話として、山道でイキアイモンに遭って動けなくなったときには、仲間が近くの民家に行き、鍋蓋を借りてきて煽いだという例を紹介している。

<姫魚の国>
・江戸時代後期には、予言をする妖怪が出没したとの記録が各地に散見されるが、姫魚もその一種。頭に角をもつ女の顔に魚体という姿で、髪を左右ふり乱し、剣のような尾鰭がついている。学氏の祖父が、佐賀町から現在の地に移ってきたときに持参したものである。姫魚は、龍宮の勅命を受けて来たのだという。「今から七年間は大豊作がつづくが、コロリという病も流行る」と予言をする。しかし、我が姿を描いたものを見れば、病を逃れることができると告げて海に入ったと書かれている。身の丈は一丈六尺というから約4メートル80センチ、巨大な予言獣である。

・姫魚の図は国立歴史民俗博物館でも所蔵している。手描き彩色で、姿も、書かれている内容もほぼ同じである。文政二年は、ほかにも神社姫と名乗る妖怪が登場して同様の予言をしている。当時、こうした噂が取り沙汰され、方々でこの種の絵が描き写されたようだ。長野栄俊は、19世紀におけるこれらの妖怪情報の受容と広がりについて、多様な情報を転写という形で受容し、他者に伝えていくような階層が地方まで広がっていた状況を指摘している。

<文政二年の夏には、江戸で赤痢が大流行した>
・注目されるのは、この騒動の最中に、異形の魚(予言獣)の絵を売り歩く者のいたことである。疫病の流行に乗じて、予言獣の噂を喧伝しながら一稼ぎを企てた者の存在が見え隠れしている。また、絵を見れば病にかからないといって、その姿を家々で写していることもある。玄悦自身は「愚俗の習わし」だと冷ややかな目で見ているが、しかし、家々ではそれを写し持っていたというのだから、庶民のあいだでは重宝されていたにちがいない。

<第2次大戦中にも>
・予言をする妖怪は、姫魚や神社姫のほかにも、猿に似た三本足の尼彦やや人の顔に牛の体という件などが知られている。とくに件は、内田百聞の短編小説「件」や小松左京「くだんのはは」でも有名だ。
 件の予言は、第2次大戦中にも噂された。立石憲利篇『戦争の民話・Ⅱ』には、昭和19年ごろ、岡山県哲西町(新見市)で件が生まれ「日本は戦争に負ける」と言って死んだという話が載っている。日本は勝つと聞かされていた村人は、戦後「やっぱり件の言うたのが本当じゃった」と話したという。予言獣の噂は、しばしば社会不安や危機と結びついて生まれる。人々が口に出すことをはばかられた「敗戦」という言葉は、件の予言に託して共感を呼んだのであろう。

<七不思議  弘法大師の奇蹟>
<ミステリーツアー>
・去年のちょうど今頃(9月)、日本民話の会主催の「本所深川ミステリーツアー」に参加した。深川江戸資料館を見学したあと、「本所の七不思議」ゆかりの場所を訪ねて歩く企画である。当日は、女性を中心に若者から高齢者まで多くの人が集まった。
 本所(東京都墨田区)を舞台にした怪異談は、江戸の代表的な七不思議として有名だ。釣った魚を持ち帰ろうとすると、堀の中から「おいてけぇ、おいてけぇ」と声がする。たまげて家に帰ると、魚籠の中の魚が消えていたという「おいてけ堀」をはじめ「片葉の葦」「送り提灯」など、いずれの話もよく知られている。

<土佐でも>
・七不思議は、かわった現象や怪異などを七つ数え上げて示すことをいう。不思議は不可思議の略で、思いはかることも言葉で表現することもできない。人知の及ばない、思考世界を超えていることである。

・しかし、七不思議がしきりに話題にのぼるようになったのは、18世紀の半ばを過ぎてからのことのようで、宮田登は、江戸の知識人たちが、江戸から離れた諸国の七不思議を奇事異聞の情報として記録したことによると述べている。
 土佐には室戸岬と足摺岬の東西の岬に七不思議がある。

・七不思議といってもぴったり七つとは限らない。七つ以上あって、人により取り上げる話がちがう場合もある。

・代わって、弘法大師が爪で彫ったという「爪書き石」や亀を呼んだという「亀呼び場」などが紹介されている。「天燈竜燈」は、深夜に海上より飛び来る火が止まるという松。

・室戸岬には「空海の七不思議」が伝えられている。一人の遍路(弘法大師)が芋を洗っていた女に、それを所望したところ「食えない芋だ」と言って与えなかった。それ以来、本当に食べられなくなったという。これが七不思議の一つ「くわず芋」である。

<生活の中の「七」>
・七不思議もそうだが、行事や習俗には、七草粥・七夜・初七日・七福神・七社参り・七人みさき・七つ道具など七のつく言葉がいくつもある。以前、大豊町では、生まれた子が無事に育たないことが続くときは、七人からツギ(布片)をもらい集めて着物を作るとよいといわれたという。土佐山村(高知市)では、正月十五日のカイツリ行事があったころ、七軒の家の餅を集め粥にして食べると夏病みをしないと伝えていた。私の祖母は、よく「七日帰りをしたらいかん」と言っていた。他所に行って七日目に家に帰るのを忌む俗信である。この禁忌の背景には、初七日にナヌカガエリなどと称して死者の霊を送り出し、死霊との決別をはかる儀礼があるようだ。「七」は、物事の節目の数として生活のなかで大きな意味をもっている。

<地震と津波 安政南海地震の記録>
<「真覚寺日記」>
・激動する幕末の世情に襲いかかるように、嘉永七(安政元)年十一月五日の夕刻、四国沖を震源とする巨大地震が発生した。寅の大変と呼ばれる安政南海地震である。太陽暦では1854年12月24日にあたる。山のような津波が浦々に押し寄せ、未曽有の被害をもたらした。宇佐村(土佐市宇佐町)真覚寺の住職井上静照は、この地震を機に筆を起こし、以後、明治元年まで足かけ15年にわたる日記を残している。「地震日記」9巻と「晴雨日記」5巻で、一般には「真覚寺日記」と称されている。
 地震の惨状とその後つづいた余震、日々の天気に関する克明な記録で知られるが、それだけにとどまらず、宇佐浦を舞台に繰り広げられる庶民生活や幕末の世相を活写していて実に興味深い。私はずいぶん前に、恩師の坂本正夫先生から読むように薦められたが、生来の怠け癖と目先の忙しさにかまけて、面白そうな場面を拾い読みする程度ですませてきた。

<生死を分けた行動>
・地震発生時の状況を「人家は縦横無尽に潰崩し瓦石は四方へ飛び、大地破裂してたやすく逃げ走る事も成り難く、男女ただ狼狽周章し、児童呼叫の声おびただし、間もなく沖より山のごとき波入り来たり宇佐福島一面の海と成る」と記している。想像を絶する現実を目の当たりにした衝撃が伝わってくる。潮は境内まで入ったがそこで止まり、辛うじて難を逃れた。寺では終夜火を焚いて寒を凌ぎ、粥を炊き芋を蒸して避難者に与えるとともに、寺を宿として提供している。

・静照は、生死を分けた行動として、「家を捨て欲をはなれて」早く逃げ出した者が助かっていると述べ、財に未練を残さず、まず逃げよと強調している。東日本大震災後の教訓でも、津波の時にはまず自らが助かることを第一に行動すべきといわれ、「津波てんでんこ」の言葉が知られるようになった。静照はまた、土地の言い伝えについて、「昔より言い伝えに大地震の時は井戸の水を見よ、もし井に水あれば汐の入る事なし、井戸に水なくかわきたる時は油断せず直ぐに山へ逃げよ、という言葉をあてにして、ただ井をのぞきつゝ流るゝ者ありとぞ」と述べ、さらに、井戸の水位による判断には根拠が無く危険だと説いている。

・地震の揺れを感じたとき、高知県では「カアカア」と声を発することが知られている。桂井和雄は、昭和21(1946)年の南海地震のとき、義理の母親がしきりにカアカアと言うのを耳にとめ、記録している。桂井によれば「東豊永村(大豊町)などではカアカアと呼んで川を見る習慣があったと言い、川に水が無くなればこの世が終ると伝えられていた」という。『俚諺大辞典』に「{地震の時はかあかあ}地震の時は川を見よとの意。若し河水涸るゝ時は山潮あるという、土佐地方の諺」とある。山潮は山津波(山崩れ)のことである。カアカアが川の意味だとすれば、井戸や川などの水位が極端に下がって水涸れの状態を津波や山崩れの前兆としていたことがわかる。地震の際に「万歳楽、万歳楽」と唱えるのは東北地方を中心によく知られているが、カアカアと、まるでカラスが鳴くような言葉は、現在のところ高知県以外では聞かない。今も伝承されているのだろうか。

<流失物を拾う>
・「流れたる跡にて食物諸道具拾い取る者おびただし、藁葺家45軒、昼頃沖より流れ寄る、箪笥長持家具類を始めとし衣類等に至るまで、砂中に埋もるを拾い取る」という状況だった。舟をだして、海上に漂う流出物を争うように拾う者もいる。
 
・拾い取った物の多くは、当面の生活に役立てたのであろう。地中に埋もれたままであったり、沖に流された物が後になって浜に打ち寄せられるなど、発見はその後もつづく。ただ、流失物のなかでも位牌については寺に届けるなどしている。

・津波がもたらした被害は壮絶を極めたが、なかでも悲惨だったのは病人である。「医者へ相談しても薬種は勿論、療治の道具、匙までも流失」というありさま。弱者にしわ寄せがくるのは、昔も今も同じである。

<夕暮れ 境界の時間と神隠し>
<逢魔が時>
・現代人の意識からすっかり遠ざかってしまった感のある夕暮れだが、私たちの祖々は、日没前のうつろいに特別の関心をはらってきた。夕暮れを表す言葉がいくつもあるのもそれを物語っている。「たそがれ」とか、「かわたれ」というのは、「誰そ彼」「彼は誰」と相手の素性を問いかける意であり、「まじまじどき」とか、「しけしけ」は、じっと目をこらすようすであろう。道を行き交う人の姿が夕闇のなかにまぎれて、遠目には誰とも見分けがつかない、ふと不安がよぎるときである。
 
・かつては、昼間は人間の活動する時間、夜は神霊や妖怪が支配する時間との観念が根強くあって、暗くなってからは用もないのに出歩くのを控える風があった。不用意に外出をして、得体の知れないモノに遭遇し被害を被る恐れがあったからだ。明治11(1878)年に東京から北海道まで約三か月をかけて旅行したイザベラ・バードは、山形県の黒沢(小国町)で宿が見つからず困ったときのことを、妹に送った手紙のなかでこう書いている。「農民たちは暗くなってから外に出ることを好まない。幽霊や、あらゆる種類の魔物をこわがるのである。だから、夕方おそくなって彼らを出発させようとするのは、困難なことであった」

・夕暮れは、人間の時間が退潮して化け物が出没し始める境界の時間である。逢魔が時ともいう。江戸時代の妖怪絵師として知られる鳥山石燕が描く「逢魔時」には、怪しい夕暮れの風景とともに、詞書に「黄昏をいう。百魅の生ずる時なり。世俗、小児を外にいだす事を禁む」とある。百魅とは、さまざまな妖怪の意味だろう。以前は夕暮れになっても子どもが家に入らないで遊んでいると、親たちは「天狗にさらわれる」などと心配した。
 また、辻占といって、夕闇せまる橋のたもとや辻などに立って、そこを行き交う人の囁きから占いをする方法もあった。

<神隠し>
・子どもなどが突然ゆくえ知れずになる「神隠し」も、夕暮れどきが多かった。とくに、日暮れのかくれんぼは危険なあそびであった。物陰に隠れた子を、夕暮れにまぎれて隠し神が連れ去ると信じられていたからである。

・高度経済成長期までは、神隠しはしばしば耳にする事件であった。柳田国男『遠野物語』八話は、「黄昏に女や子供の家の外に出ている者はよく神隠しにあうことは他の国々と同じ。松崎村の寒戸と云ふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履を脱ぎ置きたるまヽ行方を知らずなり」という文で始まる。履物を脱ぎ揃えるのは異空間へ旅立つときの作法である。この女性は、30年ほど過ぎたある日、老いさらばえた姿で親類知人の前に現れたという。

・今では想像もつかないが、失踪者を捜すには、鉦・太鼓を打ち鳴らし、桝や茶碗などを用いて耳につく音を出しながら歩いた。寺石正路の『土佐郷土民俗譚』(1928年)によれば、その昔には村中総出で野山を隈なく捜した。その際、失踪者の親族は先頭に立ち、箕で前をあおぎながら歩く。一回は「誰某よ戻れや帰れや」と声をあげた。それは「月暗く風寂しき夜半、鐘鼓の音陰に響き、失せ人の名を呼ぶ声幽かに聞ゆる時は、物凄き思いありて、婦人小児等は恐れて夜出する能わぬこともあり」と、心の底から震えるような寂しい響きだったという。

・愛媛県大洲町(大洲市)では、戸主たちがでて行列をつくり「だれ殿よー戻らしゃれよー」と呼びながら、太鼓と鉦を鳴らして村境の峠を一周した。そのとき、近親の者はスイノウを顔に括りつけて先頭を歩いた。スイノウからのぞくと見つけやすいという。スイノウは水を切るために用いる篩(ふるい)である。篩は昔話の「天狗の隠れ蓑」でも、見えないはずの京や江戸を見る手段としてよく登場するように、異界をのぞく呪的な道具でもある。不明者を連れ去っていった異界のモノを見抜くためであろう。鉦や太鼓などの音も、不明者や異界のモノたちに向けられた音である。

<箸で茶碗を叩くな>
・神隠しに逢った子どもを捜すときに、鉦・太鼓とともに櫛の歯で枡の尻を掻いて変な音をたてたり、茶碗を叩いて歩いたりもした。柳田国男は『山の人生』のなかで、日頃、茶碗や枡などを叩くことを忌む風習にふれている。箸で茶碗を叩くと貧乏になるとか貧乏神がくるなどという土地は広い。私も子どものころによく言われた。この行為を嫌うわけについて、柳田は「食器を叩くことは食物を与えんとする信号であって、転じてはこの類の小さな神を招き降ろす方式となっていたものであろう」と説く。柳田が指摘するように、鍋や食器の類を叩くのは食べ物を与える際の合図であったにちがいない。その証拠に、叩く音を聞いて餓鬼が寄ってくるという想像が膨らんでいったのであろう。「貧乏になる」というのは、そうした飢えた霊に取り憑かれて財を食い尽くされる不安を表現したものである。そこから、この真似をすることを戒めたが、一方で、神隠しのときに茶碗や枡を叩いて歩くのは、この方法で子どもを隠す神を喚んだのであろうと推測している。



『江戸の怪奇譚』
氏家幹人    講談社 2005/12



<神隠し>
<美少年はさらわれやすい>
・もちろん江戸時代に子どもが拉致誘拐されたのは、飫肥藩のようなケースだけではありません。上野寛永寺で楽人を務める東儀右兵衛の六歳になる倅(せがれ)が突然姿を消したのは、文化11年(1814)の初午の日でした。とても賢い子で寵愛していただけに両親の心配はひとかたならず、鉦や太鼓を叩いて方々を捜し回りましたが、見つかりません。そんな折、八王子の「呼出し山」で祈願すれば神隠しになった者はきっと帰ってくると教えてくれる人があり、藁をもつかむ気持ちで右兵衛は「呼出し山」へ出かけ、わが子の名を呼びました。
 倅は直ちにあらわれなかったものの、夜の夢に老翁があらわれ、何月何日に汝の家の近くで老僧か山伏に出会うだろうから、その者に尋ねてみよと告げられたとか、指定の日に老僧に会った右兵衛は、「ずいぶん別条なし」(心配ご無用)数日後の何日に戻ってくると言われ、はたしてその日、倅は無事に帰宅したということです。右は根岸鎮衛『耳嚢』(みみぶくろ)収録の一話。

・大正15年(1926)に刊行された柳田國男『山の人生』に「八王子の近くにも呼ばはり山といふ山があって、時々迷子の親などが、登って呼び叫ぶ声を聴くといふ話もあった」と見える「呼ばはり山」と同じでしょうか。「呼出し」にしろ「呼ばはり」にしろ、注目すべきは、神隠しや迷い子を捜す”聖地”が成立していたという事実です。行方不明者捜索の聖地を必要するほど、神隠しの犠牲者が多かったのでしょう。

・日常的な出来事だった子どもの神隠し。それは江戸時代にかぎらず明治以降も続きました。再び柳田國男の著述を引用すると。大正四年(1915)に『郷土研究』に掲載された「山男の家庭」という文章で、柳田は「加賀の金沢の按摩」が次のように話したと記しています。
「この土地も大きに開けました。十年ほど前迄は冬の夜更に町を歩いて、迷子の 〈 誰それと呼ぶ声と、これに伴なふ寂しい鉦の声を聞かぬ晩はありませなんだ」
 明治の末、20世紀に入っても、金沢では冬の晩には必ずと言っていいほど迷子捜しの悲しげな声が聞こえたというのです。眼が不自由なぶん、聴覚が研ぎ澄まされた「按摩」の話だけに、なおさら信憑性に富んでいるではありませんか。

・『山の人生』にはまた、「関東では一般に、まひ子の く 何松やいと繰返すのが普通であったが上方辺では「かやせ、もどせ」と、稍(やや)ゆるりとした悲しい声で唱へてあるいた」とか、鉦太古の叩き方はどこもほぼ同じで「コンコンチキチコンチキチの囃子」だったとも書かれています。迷子捜しは、関東と上方で呼び声が異なり、鉦や太鼓の囃子は全国ほぼ共通という意味でしょうか。迷子捜しの作法が固定化するほど、神隠しは日本人の生活に深く根ざしていました。そして「神隠しの被害は普通に人一代の記憶のうちに、3回か5回かは必ず聴く所」とも。それは民俗慣行のひとつと言えるほど身近な出来事でした。

<血を抜き、油を取る>
・日本全国ですくなくとも明治の末まで頻繁に起きていた神隠し、犯人は誰だ。再び『山の人生』をひもとくと、次のようなくだりに眼が止まりました。
「東京のやうな繁華の町中でも、夜分だけは隠れんぼはせぬことにして居る。夜かくれんぼをすると鬼に連れて行かれる。又は隠し婆さんに連れて行かれると謂って、小児を戒める親がまだ多い。村をあるいて居て夏の夕方などに、児を喚ぶ女の金切声をよく聴くのは、夕飯以外に一つには此畏怖もあったのだ」

・繁華な東京でも、子どもたちは常に神隠しの危険にさらされていて、犯人は「鬼」や「隠し婆さん」と言われているというのです。もちろん狐や狸の仕業ではないかと疑われ、地方によっては「隠し神さん」「隠れ座頭」等の名も挙がっていたとか。
「隠し婆さん」は古くは「子取尼」と呼ばれ、「小児を盗んで殺すのを職業にして居た」女性だと柳田は言う。 

<空飛ぶ天狗>
・神隠しの犯人はほかにもいました。『視聴草』には、天明元年(1781)の夏ごろから翌年にかけて、奥州会津から象潟(現・秋田県)までの広い地域で、15歳以下の少年少女を多数連れ去った「怪獣」の肖像が載っています。会津の塔の沢温泉で小児病の湯治に来ていた大勢の子どもが失踪したのも」この怪獣の仕業。会津磐梯山に潜んでいたところを松前三平という猟師に大筒で撃ちとめられたそうですが、その姿はご覧の通り。さて、一体何者だったのでしょう。
(ブログ注;「長髪長尾のミニ怪獣(はたして児童集団拉致の犯人か)」の図絵とは、グレイの異類混血のようなイメージです)。
 狐狸、隠し婆さん、鬼、怪獣・・・。でも神隠しと言えば、主役はなんといっても天狗でした。

・文化三年(1806)には、美濃国郡上郡のある村で、14、5歳の重五郎という少年が風呂に入っている最中に天狗にさらわれましたし、平戸藩老公(前藩主)松浦静山の本所の屋敷に奉公していた下男にも、天狗に拉致された経験者がいました。文政八年(1825)に53歳になっていた源左衛門という名のこの下男、7歳の祝いに故郷上総国の氏神に詣でた際に山伏(天狗)に連れ去られたというのです。8年後に家に帰ってきましたが、不思議や、7歳のときの着物に微塵も損傷がなかったとか。

・18歳になると、再び以前の山伏があらわれて、「迎に来れり。伴ひ行べし」(迎えに来た。さあ一緒に行こう)。帯のようなもので山伏の背に結いつけられ、風のような音を聞くうちに越中立山へ。その後、貴船、鞍馬ほか諸国の霊山を廻って天狗たちに剣術や兵法を学ぶなど不思議な体験を積んだ源左衛門は、19歳の年すなわち寛政三年(1791)に、天狗の世界を去る証状(証明書)と兵法の巻物や脇差を授けられて、人界に戻されたのでした。

・嘘のような話。さすがに静山公も当初は半信半疑でしたが、やがて信じる気持ちに傾き、結局のところ、「何かにも天地間、この傾き妖魔の一界あると覚ゆ」と天狗の世界の存在を認めています。天狗の神隠しの事例は、虚と自信を持って否定するにはあまりに多く、ポピュラーだったからでしょう。
 
・江戸大塚町の石崎平右衛門は、若いころ筑波山の天狗に数年仕えたのち、日光山の天狗に十露盤(そろばん)占いの法を伝授されましたし、池之端の正慶寺に奉公していた14歳の童子は、文化11年(1814)に天狗に伴われ、なんと「万里の長城」を上空から眺めるという稀有な体験をしています。神田鍛冶町の天狗庄五郎が「天狗」の異名を取ったのも、若い頃天狗に誘われて2、3年姿を消していたからにほかなりません。

・ほかに天狗甚右衛門の異名で呼ばれていた者もいました。彼もまた数年間の神隠しを経て戻ってきたのだとか。

・ところで静山は、讃岐国高松藩の世子が幼いころ矢の倉(現・中央区)の屋敷の庭で凧揚げをしていたとき目撃した不思議な光景についても記していました。はるか上空を頭を下にした女性が泣き叫びながら飛んで行くのを見たというのです。同じ光景は家来たちにも目撃されており、幼児の幻覚や思い込みではなかったようですが・・・・のちに世子は、あれは天狗が女をさらって空を飛んでいたのだと思うと幕府の坊主衆に語っています。

・はたして主な犯人は”空飛ぶ天狗”だったのでしょうか。もちろん、柳田も天狗による神隠しの例をいくつも挙げていますが、天狗説は「冤罪」と退けています。ならば誰が?柳田の推測では、古くから神隠しを頻繁に起こしてきた元区は、大和朝廷に排斥され山中に隠れ住んでいた人々の末裔。「神武東征」以前に日本に住んでいた先住民の子孫が、江戸はもちろん明治以降も山中に住み、「生殖の願」や孤独生活のさびしさから黄昏に人里にやって来て「美しい少年少女」を拉致したというのです。

<天狗の情郎>
・天狗か、先住民の末裔か、それとも悪質な修験者の犯行か。犯人の詮索はともかく、注目すべきは、柳田が神隠しの原因のひとつとして性的欲求を挙げた点でしょう。同様の指摘は江戸時代の随筆にも見え、『黒甜瑣語』(1795年序)には、当時神隠しになった少年や男たちが「天狗の情郎」と呼ばれていたと書かれています。「情郎」は通常「陰間」(かげま)と書いて、男色をひさぐ少年の意。江戸時代の人々は、神隠しの犠牲者はすなわち邪な性的欲求の犠牲者であると暗黙のうちに了解していたのです。

<はては宇宙から眺めた「国土」(地球)の姿まで、多彩な内容を克明かつ饒舌に披瀝した寅吉少年>
・性犯罪としての天狗の神隠し。とはいえそこには、現代のケースのように天狗=性犯罪者、少年=犠牲者と単純に割り切れない面もありました。

・介護や師弟関係が性愛と不可分だった時代、天狗の神隠しにも、われわれの常識では計り知れない面があったに違いありません。



『河童物語』
本堂清  批評社 2015/10/25



<異界に生きる生物を具現化>
・人々は、古来から自然界の不思議な異変現象や畏怖の体験から、さまざまな想像上の禽獣、妖怪、守護神を数限りなく生み出してきた。
 なかでも、吉祥祈願のための龍や鳳凰、河童は、人間生活に根強く溶け込んでいる。
 とくに河童は、どじで間抜けで、意地がなく、悪さをして人に捕らえられると、勘弁してくださいと涙を流し、時には詫び状まで入れて、許されると、その恩義に感じて秘伝の薬事方法まで伝えたりする憎めない妖怪で、全国至るところによしみをもっている。
 
<河童と烏天狗>
・カッパと天狗仲間の烏天狗は、顔が似ているので、先祖は同じ仲間ではないかという者もいるようだ。
 たしかに両方とも、目が大きく、鼻が似ていて、頭もばさらである。だが天狗の目は、カッパがキョロキョロとしているのに対してギョロと鋭く怖い。
 それにカッパは、童形の水生動物であるのに対して、天狗は人間の変身であり、並はずれの神仙修業を積んだ者で、背に翼を持ち、大きなヤツデの団扇をあおいで、天空を駆けるなど、カッパの神通力とは比較にならない、融通無礙の呪術を会得している。
 カッパも飛翔することがあるが、これは春秋季に集団移動する時や、必要な集団行動に限り、飛ぶことができるという習性で、普通に天空に遊ぶことはできない。
 したがって、カッパと烏天狗は、空中と水中のように似ても似つかぬ生態なのである。

<河童とは>
・この世に「カッパなどいない」と、にべもなく否定する人がいる。確かに現代において、カッパはオカルト的な存在であり、カッパの存在は生物学的・科学的にも証明することは難しい。
 だが「実際に見た」とか「悪さをされた」という証言は古来から多く伝えられ、絵本などでも様々に描かれている。だから一概に「カッパは存在しない」ということにはためらいがある。

<河童像>
・カッパについて、いろいろ調べてみると、カッパの容姿についておおよそ次のようなスタイルが浮かんでくる。
 絵本に出てくるカッパは4~5歳の童子のようで、顔はトカゲに似ている。くちばしが尖り、身に堅い甲羅を背負い、手に水掻きがある。頭はオカッパでお皿を置いたように髪の毛がなく、ここに湿り気がなくなると途端に妖力が抜ける。だが、皮膚の下に厚い脂肪をたくわえているので、冬でも裸でいられるのである。
 川の深みや沼、水神様が祀られている水辺近くに棲んで、仲間同士で相撲を取ったりしているが、時には、人や馬を水中に引き込むという悪さをしたりする。

・日本国にカッパは、数十万匹居ると言われているが、不思議なことに彼等は体を小さく変体させて、馬のひずめ跡の水溜りでも、千匹棲めるという妖怪である。

<河童忌>
・7月24日は、小説家芥川龍之介の命日で代表作「河童」に因んで「河童忌」となづけられている。
 河童を題材とする本はこれまでわんさと出ている。それだけに人とカッパの関わり深さがわかる。
 火野葦平も長編小説「河童」のなかで、多くの有名人が描いた河童想像画を挿絵に飾って、カッパの生態を怪しく書いている。
 画家や彫刻家たちも、思い思いのカッパ像を表現してきている。しかし小川芋銭の河童画に勝るものはない。芋銭は実際にカッパを見たと言っているので、独特な画風と相俟って迫真の河童像が描けたのである。

<河童守護神  罔象女水神>
・罔象女水神(ミズハノメノカミ)は水神様で、カッパが崇拝する守護神である。『古事記』では、「弥都波能売神」と表記されている、日本の神話に登場する代表的な水神である。天照大神の母であるイザナギの命が、火の神であるカグツチを生んだとき、ホト(陰部)を火傷してしまった。
 その苦しみで、思わず失禁し、尿からミズハノメを産んで死んだのである。
 それでミズハノメは火を鎮める水の神となった。その容姿は小児のような小神であったという。
 また一説ではミズハノメとは、水神に使える妻という意味もあるという。さらに、中国の文献では龍や小児の姿をした水の精であるといわれている。
 さらにまた「カッパは小神の零落したかたち」という伝説もあってカッパ妖怪伝説の由来ともなっている。

<河童総元締 九千坊>
・日本国に潜在するカッパは数万といわれている。その総元締は、九州は球磨川に棲んで、九州一帯に勢力を広げ、九千匹の子分を配下に収めていた九千坊ということになっている。
 九千坊は先祖代々襲名で、カッパ族の象徴的存在である。カッパ族は九州高千穂から全国に扶植したもののいわれて、誰からも支配されたり、統率されることはない。
 だからどこに棲んでいても、カッパ族にはシチ面倒くさい作法とか親分・子分といった角張った階級格差などは存在しない。
 だが、由緒正しいカッパ族の誇りと秩序を守るために、全国的な節制組織がある。
 その頂点に立っているのが九千坊である。だが彼は決してカッパ族の統率者ではない、名誉総裁として敬愛されているのである。

<九千坊の女房 ポンポコ>
・九千坊の女房ポンポコカッパは、豊前国の立川地方を縄張りとする六助カッパの一人娘で、美貌に似つかわしくなく、男まさりの喧嘩好きで、父親の六助に変わって豊前一帯の縄張りを支配していたので、あまり評判の良くない女親分であった。
 そのころ、筑後川に拠点を移していた九千坊は、玄界灘から周防灘、日向灘の西海地方を圏域とする、カッパ族の生きる宗家として、隠然たる信頼と権威を保っていた。だが、まだその頃は九千坊とは言わずにカッパの宗家西海家を継承し、西海坊と呼ばれていた。

<河童譚>
・カッパの元祖についてはいろいろな説がある。九州は球磨川河口の八代市に「河童渡来之碑」が建っている。
 それによれば今から2千2~3百年前、秦の始皇帝に仕えた方士(不老長生法など神仙術に長けた仙人)徐福が、東海の彼方にあるという不老不死の仙薬採取を命じられた。徐福は蓬莱山への航海にあたって、皇帝から与えられた良家の少年少女3000人と、金銀珠玉と五穀と機材を積んで旅立ったという。
 だが徐福の大船は日本に漂泊して本国へ帰還しなかった。
 この頃中国方面から漢民族に滅ぼされた多くの漂流民が日本に渡来してきた。この時中国黄河を本拠地としていたカッパ一族が、海を渡ってきて、球磨川に棲みつき、繁殖して九千匹にもなった。これの族長が九千坊であるという。このカッパ族は全国に伝播していき、カッパ、かわわっぱ、川伯、河童またはヒョウスベ、ガタロウなどと呼ばれるようになった。
 またカッパの故郷は、九州高千穂という説もある。邪馬台国の女王卑弥呼(天照大神)の孫が国造りのために天孫降臨したところである。カッパの先祖は、その時お供して来た、神の子の子孫という伝承もある。

・またヒョウスベという呼び名は、カッパがあなたこなたへ移動するとき、ヒョウヒョウと声を鳴らしながら行くので、その名で呼ばれるのだともいう。つまりカッパはカラス天狗のように飛翔することもできるのである。

<人と河童のDNAは同じ>
・その態様はまことに奇怪で、身に衣を着けず、裸体で、身を保護するためか、背には亀の甲羅のようなものを背負っていた。人間でもなく、魚類でもない奇態な小動物を、中国人は水虎とか河伯と呼んでいた。
 やがて奇態な格好をした彼等は日本にも現れて、妖怪カッパとしての伝説を広めていくのである。

<河童のパラダイス西海道>
・九州はカッパ発祥の地といわれているだけあって、カッパ集団が九州全域に割拠している。
 もちろん筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、薩摩、大隅、日向の西海道は、カッパの宗家九千坊一家の領域である。
 筑前、豊前には、壇の浦の戦いで源氏に敗れた、平家の武将平教経の奥方で、カッパに化身した海御前を守護神に祀って結束しているカッパがいる。この平家カッパの領域も九千坊の領域である。
 日向地方には、高千穂付近の五ヶ瀬川支流の一つに七折川に、瀬の弥十郎グループが、山裏に右衛門グループ、押方の二上川には神橋の久太郎グループなどがいる。

<海御前を祀る平家>
・北九州市門司区の大積には天疫神社があり、そこに海御前の墓がある。
 海御前は寿永4年(1185)の源平最後の合戦を、檀の浦でたたかったが、平家は敗れて西海の海の底深く沈んだ。この戦いで、源氏の大将判官九郎義経の八隻飛びを、寸前のところで捕えようとしながらも取り逃がした、平家の大将能登守教経の妻が、カッパに化身したのが海御前である。
 教経は矢に当たって落水し、妻も入水して流されているところを郎党に引揚げられて、大積の地に葬られた。郎党たちは門司周辺に住み、西海のカッパに化身したとされる。
 この平家の郎党は、海御前の霊を守護神として祀り、毎年平家の命日である旧3月24日には、平家一族の誇りと結束を強め、瀬戸の海に眠る祖先の霊を慰めている。



『河童の文化誌』 平成編
和田寛  岩田書院  2012/2



<平成8年(1996年)>
<河童の同類とされている座敷童子(ざしきわらし)>
・ザシキワラシ(座敷童子)については柳田國男の『遠野物語』によって知られていたところである。

<アメリカのニューメキシコ州の異星人の死体>
・回収された異星人の姿は人間によく似ているが、明らかに地球人ではない。身長1.4メートル、体重18キロ前後、人間の子供のようだが、頭部が非常に大きい。手足は細長く、全体的に華奢。指は4本で親指がなく、水掻きを持っている。目は大きく、少しつり上がっている。耳はあるが、耳たぶがなく、口と鼻は小さくて、ほとんど目立たない。皮膚の色がグレイ(灰色)であるところから、UFO研究家は、この異星人を「グレイ」と呼ぶ。

・異星人グレイと河童を並べてみると、素人目にも、そこには多くの共通点を見出すことができるだろう。
 まず、その身長、どちらも1メートル前後、人間のような格好をしているが、頭部だけがアンバランスなほど大きい。
 大きな目に、耳たぶのない耳、そして、小さな鼻穴と、オリジナルの河童の顔は、そのままグレイの顔である。
 最も注目したいのは、その手である。
先述したようにグレイは河童と同じ鋭い爪、水掻きがある。おまけに指の数が、どちらも4本なのだ!。
 また、グレイの皮膚の色は、一般にグレイだが、ときには緑色をしているという報告もある。
 河童の色は、やはり緑が主体。ただ両生類ゆえに皮膚はアマガエルのように保護色に変化することは十分考えられる。

・これらが、意味することは、ひとつ。アメリカ軍は、組織的にUFO事件を演出している。
 捕獲した河童を異星人として演出しているのだ。



『河童を見た人びと』 
 (高橋貞子)(岩田書院)  2003/6



<「河童を見た人びと」の舞台は、岩手県下閉伊郡岩泉町です>
「河童を見た人びと」の舞台は、岩手県下閉伊郡岩泉町です。岩泉町は、香川県一県に匹敵する日本一広い面積をもち、総面積の93%を林野が占めています。豊かな森と水を背景に、岩泉町の人々は河童ばなしを豊かに語り継いでいました。半世紀前の人々が見たり聞いたりした岩泉河童ばなしを掘り起こして、ひたむきに書き留めて羅列して一冊になりました。

<ミカン色の皿を被ったカッパを見た>
・昭和13年(1938)、キクさんたちは小学校の4年生でした。ある日、学校の帰途に舟木沢の滝の渕を覗きますと。美しいミカン色の皿が浮かんでいました。
よく見ると、ミカン色の皿の周りには、肌色に縁取られていました。やがてカッパが浮かび上がり、胸の辺りまで体を現しました。カッパは肩の落ちた撫肩の体形でした。
その体の色の美しいこと、表現の言葉がみつからないといいます。水に濡れていた所為と思いますが、サンマなどの光り魚のようだった、と言い表すのが一番近いでしょうと、キクさんは語りました。


"我邦、古より天狗と称する者多し、皆霊鬼の中、其の較著なるものが天狗であり、狐・童・僧侶・山伏・鬼神・仏菩薩などの姿で出現する。(2)" へのコメントを書く

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